http://d.hatena.ne.jp/noharra/20081128#p1
私のhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081127/1227807914に言及して下さっている。そこで曰く、
先ず、私は「伝統」という時に、所謂ハイ・カルチャーに限定したつもりはありませんでした。それよりも、「伝統から疎外」というのはそもそも現代(ここでは近代というよりも現代というべきでしょう)の条件なのではないかという意識があります。細かい議論は省きますが、産業化、都市化等々の社会変動によって、それがハイ・カルチャーであれ「低文化」であれ、或いは民俗文化であれ、「伝統」というのは母語を習得するような仕方で身に着けられるものではなくなっているのではないか。つまり、わざわざお勉強したり習い事をしたりするものへ。
伝統から疎外された=低文化資本 という認識はどうか。伝統を源氏物語や仁斎などのような高文化にしかみていないようだ。実際は、源氏物語はだらだらした不倫の話でありプルースト的20世紀の教養においてしか高文化たりえない。源氏物語も馬琴、一九も良寛も歌舞伎も高文化ではなく、中文化(場合によっては低文化)として享受された。これが、江戸文化の底力である。この底力がエヴァンゲリオンや宮崎駿にまで流れていると考えるのは妥当な理解であろう。浪花節や演歌など、芸能形態としても叙情の質としてもまさに「伝統的」でありながら、低文化資本な広範な大衆に享受された文化も、近い過去にはあった。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20081128#p1
また、「江戸文化」という時、東で言えば蜀山人、西で言えば上田秋成とかを考えればいいと思いますが、そもそも〈雅〉(野原さんのいう「高文化」)と〈俗〉(野原さんのいう「低文化」?)のマッシュ・アップによって成り立っていたわけで、私がいう「伝統」というのはそのようなマッシュ・アップされたものとしての「伝統」ではあります。話はずれますが、江戸文化の凄いところは(出版資本主義によって)平安文化と中国文化が大衆化されたということが先ずあるでしょう。『源氏物語』に関しては、『源氏』なくして能楽はあり得ず、能楽なくして歌舞伎はあり得ず、というところで。
取り敢えず、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080622/1214152497でも言及した由良君美『言語文化のフロンティア』と田中優子『江戸の想像力』をマークしておきます。

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