かぐや姫?

かぐや姫症候群」という言葉を知った;

 
 樋口康彦「かぐや姫症候群に関する考察――準ひきこもり行動との関係から――」『富山国際大学国際教養学部紀要』2、2006、pp.31-38.
 http://www.tuins.ac.jp/jm/library/kiyou/2006kokusai-PDF/higuchi3.pdf


タイトルを一瞬見て、「神田川」のメロディが浮かんできましたよ。しかしながら、ここでいう「かぐや姫」というのは、南こうせつとも伊勢正三とも関係なく、あの日本に於ける物語文学の鼻祖として称えられる『竹取物語』の「かぐや姫*1。それにしても、「かぐや姫」の物語を、大学生活に適応できなかったヒッキーの物語として読んでしまうのだから、心理学者というのは凄い!*2 『竹取物語』には中国的神仙思想の影響は当然ある。とすると、ヒッキーというのは、日本のみならず東亜細亜の伝統文化を背負った存在であるということになる。さらに、「かぐや姫」の物語にグノーシス主義との同型性を看て取ることも可能だろう。ヒッキーといわれる人たちを大いにエンカレッジしている!
それはそうと、論文のビブリオグラフィを見ると、learned helplessnessに関するテクストが幾つか並んでおり、そのいちばん古いのは1983年に遡る。社会心理学におけるlearned helplessnessの議論は、たしか帰属理論(attribution theory)とマクレランドに始まる「達成動機(achievement motivation)」論が結びついて、1970年代後半あたりから盛んになったと記憶している。日本でも1980年代前半あたりから、〈若者の無気力〉言説と結びついて、アカデミズムを越えて流通し始めたんじゃないだろうか。波多野誼余夫さんの『無気力の心理学』(中公新書)もたしかその頃出たのではないだろうか。つまり、20年以上前からこういうのは問題になっていたということ。ポストモダンという言葉が大衆化し始めるほんの数年前である。「達成(achievement)」というのは、パーソンズがそのパターン変数で、「属性(ascription)」と対にしたように、近代ど真ん中な概念ではあった。
こんなことをつらつら考えているうちに、


70年代以降の主要な若者論を調べていると、強いインパクトを受ける発見がある。一つは、昔から同じことを言っているということ。例えばカプセル人間論、モラトリアム人間というような論があったが、これらは言葉を入れ替えただけで現在の若者論の言説に変形させられる。われわれは「最近の若者はこうだ」「こんなに変わったんだ」ということをずっと繰り返してきたが、その言説がまったく変わっていない。もう一つ。70年代の若者論者は若者に理想を託していた部分があった。現在への適応形態である、古典的な立場から批判してもしょうがないので擁護しつつ悪い方向に行かないようにするべきだ、というような部分。つまり、当時の若者論は、今と言っていることはほとんど変わっていないが、バッシングにはなっていなかった。
いう浅野智彦さんの発言*3を思い出した。

*1:因みに、樋口氏が「かぐや姫」を「昔話」としているのは、カテゴリー・ミステイク。

*2:このテクストに対するリアクションについては、取り敢えずhttp://d.hatena.ne.jp/setofuumi/20060428を参照されたい。

*3:http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20060428/p2 但し、文責はchikiさん。