水原紫苑『[改訂]桜は本当に美しいのか』

数日前に水原紫苑*1『[改訂]桜は本当に美しいのか 欲望が生んだ文化装置』を読了。


まえがき


第一章 初めに桜と呼びし人はや
第二章 『万葉集』と桜の原型
第三章 『古今集』と桜の創造
第四章 『枕草子』と人間に奉仕する桜
第五章 『源氏物語』と桜が隠蔽するもの
第六章 和泉式部と桜への呪詛
第七章 『新古今集』と桜の変容
第八章 西行と桜の実存
第九章 定家と桜の解体
第十章 世阿弥と桜の禁忌
第十一章 芭蕉と桜の記憶
第十二章 『忠臣蔵』と桜の虚実
第十三章 『積恋雪関扉』と桜の多重性
第十四章 『桜姫東文章』と桜の流転
第十五章 『春雨物語』と桜の操
第十六章 宣長と桜への片恋
第十七章 近代文学と桜の寂莫
第十八章 近現代の桜の短歌
第十九章 桜ソングの行方


あとがき
平凡社ライブラリー版あとがき
参考文献

「桜」を巡る日本文学史の試み。中でも、『古今集』において「桜」が「美の通貨」として構築され、西行藤原定家という(2つの異なった)極限へと行着くプロセスを追った第3章から第9章までの論の濃密さには圧倒されてしまう。(著者本人も認めているけど)それと比べると、近世以降についての記述と論は少し薄い感じがした。ただ、第十二章で、近代日本における軍国主義的な血腥い「桜」のイメージの端緒を『仮名手本忠臣蔵*2に認めていることは注目に値する。「桜に寄せられたさまざまな欲望のうちでも、最悪に近いのはたしかであろう」(p.185)。
古今和歌集 (岩波文庫)

古今和歌集 (岩波文庫)

仮名手本忠臣蔵 (岩波文庫)

仮名手本忠臣蔵 (岩波文庫)

さて、「あとがき」に曰く、

今年、急に書く気になったのは、タブレットや新しいパソコンを購入して、手書きより、長いものが書きやすくなったせいもあるのだが、最終的に背中を押したのは、桜ソングのところでも書いた藤圭子自死*3である。一九五九年生まれの私は、社会の記憶が七〇年から始まっている。とりわけ、十一月二十五日の三島由紀夫自死*4と、十二月三十一日紅白歌合戦の日本人形のような藤圭子のどす黒い歌声は忘れられない、あの呪いは本物だった、振り返れば、三島由紀夫藤圭子、二人の自死の間を生きてきただけの人生だった、という戦慄の中でひたすら書いた。(p.276)