犬を詠む水原紫苑(メモ)

犬たちの肖像

犬たちの肖像

四方田犬彦*1『犬たちの肖像』から。
水原紫苑*2は「犬」に因んだ短歌を多く詠んでいるという;


(前略)彼女は犬を現実の獣性から引き離し、天空に輝く星座のように神話化してみせる。水原は機会あるたびに、犬を題材として優れた短歌を詠んできた。彼女にとって犬とは、古代の時間を想起させてくれる神話的動物であり、悪戯好きの神聖なる化生である。それはみずからの女系の起源であり、霊感の根源でもある。歌集『うたたら』(一九九二)から、まず二首を引いてみよう。

天界は井戸の真上と告げ来たり 汝は汝が種をとはにさびしみ
さかのぼる水の一生*3か わが妹、姉、叔母、大叔母かくて犬神
天界と井戸とが、極大と極小の円環を築き上げながら呼応している。その構図のなかに、一匹の孤独な犬がいる。係累をもつこともなく、不毛な生涯を送る運命にあるその犬にむかって、語り手は呼びかけている。ここで井戸が登場するのは、あるいは謡曲『井筒』の記憶が働いていたのだろうか。もし犬と語り手が幼少時からの仲であったとすれば、そこに稚さゆえの愛の追想を詠み込んだと解しても間違いではあるまい。ともあれ犬は孤独に、円筒形をした井戸の周りを廻り続ける。だが、いくら廻ったとしても犬はどこにも到達できず、その生は寂しい不毛のうちに終わるだろう。世界とは、犬がその周囲を廻っている巨大な井戸なのだ。
だが同時に語り手は、自分の出自を時間軸に遡って訪ねてみれば、究極のところ「犬神」に到達してしまうと書き付ける。もうそこから先へは探求を進めることができない。時間の始源には犬こそが立ち塞がっていて、「わが」女系の生はその末裔なのだ。(pp.281-282)
また、

*4として埋められし古代中國の犬たちよ地下より眞の革命を為せ
という歌を巡って;

人間の葬送のために生贄とされてきた夥しい犬たちに対して、凛々しい声でなされたアジテーションである。犬たちがみごとに地上に生還し、天地を逆転させる造反を開始したならば、おそらく作者は『八犬伝』の伏姫よろしく彼らの陣頭に立ち、勇敢なる戦闘のいっさいを見届けた上で、ふたたび彼らの菩提を弔うことになるだろう。中国を舞台としながら「真の革命」と記すあたり、なかなか辛辣なアイロニーをもった歌だという気がする。(p.284)
これは強力なイマージュだと思って、読んだ瞬間固まってしまった。
古代中国において犬がその嗅覚の鋭さ故に魔除けとして殺されていたことについては、村上春樹スプートニクの恋人』の一節を呈示しておく。また、白川静先生の『中国古代の民俗』も忘れてはならない。

「昔中国の都市には、高い城壁がはりめぐらされていて、城壁にはいくつかの大きな立派な門があった」とぼくは少し考えてから言った。「門は重要な意味を持つものとして考えられていた。人が出たり入ったりする扉というだけではなく、そこには街の魂のようなものが宿っていると信じられていたんだ。あるいは宿るべきだと。ちょうど中世ヨーロッパの人々が、教会と広場を街の心臓として捉えたのとの同じようにね。だから中国には今でも見事な門がいくつも残っている。昔の中国の人たちがどうやって街の門を作ったか知ってる?」
「知らない」とすみれは言った。
「人々は荷車を引いて古戦場に行き、そこに散らばったり埋もれたりしている白骨を集められるだけ集めてきた。歴史のある国だから古戦場には不自由しない。そして町の入り口に、それらの骨を塗り込んだとても大きな門を作った。慰霊することによって、死んだ戦士たちが自分たちの町をまもってくれるように望んだからだ。でもね、それだけじゃ足りないんだ。門が出来上がると、彼らは生きている犬を何匹か連れてきて、その喉を短剣で切った。そしてそのまだ温かい血を門にかけた。ひからびた骨と新しい血が混じりあい、そこではじめて古い魂は呪術的な力を身につけることになる。そう考えたんだ」
すみれは黙って話のつづきを待っていた。
「小説を書くのも、それに似ている。骨をいっぱい集めてきてどんな立派な門を作っても、それだけでは生きた小説にはならない。物語というのはある意味では、この世のものではないんだ。本当の物語にはこっち側とあっち側を結びつけるための、呪術的な洗礼が必要とされる」
「つまり、わたしもどこかから自前の犬を一匹見つけてこなくちゃいけない、ということ?」
ぼくはうなずいた。
「そして温かい血が流れなくてはならない」
すみれは唇を噛んでひとしきり考えていた。気の毒な小石をまたいくつか池の中に投げ込んだ。「できたら動物は殺したくないな」
「もちろん比喩的な意味でだよ」とぼくは言った。「ほんとに犬を殺すわけじゃない」(pp.25-27)*5
スプートニクの恋人 (講談社文庫)

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

中国古代の民俗 (講談社学術文庫)

中国古代の民俗 (講談社学術文庫)

*1:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050618 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060120/1137745397 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060927/1159366397 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070219/1171856820 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070515/1179237549 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070605/1181012495 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070911/1189437787 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080905/1220637463 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090621/1245524625 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090707/1246939532 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100215/1266172377 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100219/1266520878 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100224/1267034263 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101019/1287460367 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110525/1306287120 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110805/1312481934 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20130418/1366301623 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20130924/1380045500 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20130925/1380121265 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20141004/1412363750 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20151129/1448815193 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20160611/1465618195 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20160723/1469283474 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20170530/1496164942 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20170901/1504285580 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20180624/1529805997 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/02/22/134544 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/02/25/114820 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/03/03/004852 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/03/07/001330 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/03/09/131611

*2:See alsohttps://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20130328/1364434114 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20160225/1456409519

*3:「ひとよ」。

*4:「にへ」。

*5:Cited in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20160719/1468946923