「短歌」と「天皇制」(水原紫苑)

水原紫苑*1百人一首うたものがたり 最終回」『本』(講談社)522、pp.42-45、2020


連載の最終回。
百人一首*2の最後の歌;


百敷や古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり   順徳院*3

百人一首はこの歌を以て終わる。最初に天智天皇持統天皇の親子を据え、最後も天皇父子で締めくくる構成である。
しかし、天智天皇持統天皇の歌では、確固たる基盤を築こうとしていた王権が、後鳥羽院、順徳院の歌では、武家政権の実力の前にまさに風前の灯となっている。
(略)
改めて短歌と天皇制という宿命的なテーマを思う。現在の私は侵略戦争と結びついた近代以降の天皇制には反対だが、そもそも短歌、いや和歌が天皇制のもとに発展して来たのは否定しようのない事実である。そこを歌人として作品の上でどのように総括して行くかが、私の死ぬまでの課題である。(p.45)
また、

百人一首を読んで来て、数々の名歌秀歌に出会い、また一方でどうしてこれが入ったのかわからないと首を捻ったことも多かった。しかし、常に感じたのは、一首の意味以上に、内在する歌の調べを尊重する志向である。それは(略)人間の無意識に訴えかける歌の韻律ということではないだろうか。
意味の表出だけなら、短歌は現代詩や小説に到底及ばない。だが、調べという一点によって、あるいは拮抗することができるのではないか。
それが百人一首の現代に投げかける主題だと思う。(ibid.)