根本問題を投げること

貴戸理恵「道徳教育、大切なことは?」https://news.yahoo.co.jp/byline/kidorie/20170810-00074337/


小学校における「道徳の教科化」というのは来年の4月からの話だったのだ。「パン屋」じゃなくて「和菓子屋」にしろといういちゃもん*1も「道徳の教科化」絡み。
さて、


アメリカやオーストラリアなどの教育現場で小学校低学年向けの哲学系の授業などによく使われる絵本に、『たいせつなこと』(邦訳 内田也哉子、原題The important book)がある。この本では、子どもにとって身近なものから、その本質とは何かを考えていく。たとえば、スプーンならば、「てでにぎれて/たいらじゃなくくぼんでいて/いろいろなものをすくいとる/でもスプーンにとって/大切なのは/それをつかうと/じょうずにたべられる/ということ」という具合だ。靴やりんご、空などが登場し、ラストは「あなた」について考える。「たいせつなのは/あなたが/あなたで/あること」。

他方、日本の道徳教科書すべてに採用された「かぼちゃのつる」は、以下のような話だ。ぐんぐんつるをのばすかぼちゃは、蜂や蝶、犬に「みんなのとおるみちだよ」などと止められるが「こっちへのびたい」と聞かず道路にはみ出す。挙げ句、トラックに轢かれて泣いてしまう。テーマは「わがままをしない」である。

比較すると、あまりの落差に愕然とする。「たいせつなこと」が存在の本質を見通し子どもの自己を根底から肯定しようとするのに対し、「かぼちゃ」は表層的な寓話を通じて自我を世間にとって都合よく曲げようとするのみだ。子どもを馬鹿にしすぎである。それぞれの教育を受けた人が後に出会ったら、その差は明らかだろう。

哲学の根本問題には現実存在と本質存在の区別がある*2。まあハイデガーなら、それよりも存在と存在者の区別の方が重要だよというのだろうけど。その根本的な問題を子どもに対してストレートに投げかけているという感じがする。また、民主社会においては、男/女、善/悪、貧/富、老/幼などの属性(what)を超えて、人格(who)の尊厳が承認されていなければならないが、人格の尊厳の根柢には現実存在と本質存在の区別があるわけだ。
現実存在という言葉を縮めて「実存」という言葉を作った九鬼周造の「実存哲学」(in 『人間と実存』、pp.56-104)をマークしておく。
人間と実存 (岩波文庫)

人間と実存 (岩波文庫)