「加害者家族」の視点

承前*1

阿部恭子「「上級国民」大批判のウラで、池袋暴走事故の「加害者家族」に起きていたこと 家族は「逮捕してもらいたかった」と話す」https://news.livedoor.com/article/detail/19026987/ *2


池袋暴走事件の飯塚幸三被告の家族の話。家族は事件後直ぐNPO法人WorldOpenHeartに匿名で相談を寄せていたという。


被告人が逮捕されなかったのは、旧通産省の官僚だったからだという「上級国民」バッシングが始まった。ネット上では、「死刑にすべき」といった厳しい批判や被告人への罵詈雑言で溢れ、被告人の自宅には嫌がらせの電話や手紙が届くようになった。バッシングは被告人だけにとどまらず、「家族も同罪」「家族も死刑」といった書き込みもあった。
また、一般論として;

加害者が高齢者で被害者が若年者であった場合は特に、世間の処罰感情は強く、加害者が厳罰を逃れるならば、代わりに家族が制裁を受けるべきというようにその矛先は家族へと向けられる。

甚大な被害に対して、誰かが相応の責任を取らなければ収まらない世間の処罰感情に応えるように、加害者家族が自ら命を絶つケースもあり、世の中は事件の幕引きを図ってきたのだ。

しかし、加害者家族が代わりに罪を引き受け犠牲になることは、一時的な世間の処罰感情を満たすだけであって事件の本質的な解決にはならない。
本件において、被告人の子どもたちは被告人に対して、影響力を有する関係にはなかった。被告人は一般的には高齢であるものの自立した生活を送っており、子どもたちがコントロールできるような親ではない。したがって、被告人の言動に対して子どもたちにまで責任があるというには無理がある。


「上級国民」バッシングは、近年、加速しているように見える格差社会の間で無力感に苛まれている人々の復讐であり、不満の捌け口にもなっている。

しかし、家族も含む加害者側への行き過ぎた制裁は、「被告人はすでに社会的制裁を受けている」という減刑の材料にもなり、厳罰化の主張に対して逆効果を招くことさえあるのだ。

「上級国民」という言葉が流行したとき、とても嫌な感じがした。所謂〈法の下の平等〉というのは民主社会の存立にとっては不可欠な建前だろう。しかし、その信憑性(plausibility)はあからさまに低下している。少なからぬ人が「上級国民」なる特権層を仮構して、自らを二級市民であるかのように思い込んでいる。本国にいながら、殖民地の先住民の如くであるようだ。
まあ、上からの煽りによる差別や排除というのは、殆ど常に、架空の特権(層)を構築して、劣等感などをフックとしつつ、妬み(envy)のような劣情を煽るという仕方で行わる。「在日特権」なるデマはまさにその例である。生保バッシングも然り。最近では、日本学術会議への政治介入スキャンダル*3を、かつての公務員バッシングと同様の仕方での学者バッシングで乗り切ろうという動きがある。
さて、「上級国民」バッシングは上から仕掛けられたものでもないし、特定の政治勢力によって操作されているわけでもない。謂わば自然発生的に沸き起こったものだ。或いは、「世間」が仕掛けたと言えるだろうか。さらに、質が悪いことに、この「上級国民」バッシングは、政治的スペクトラムの何処にいる人にも、右翼にも左翼にも、権威主義者にもリベラルにも、共鳴を惹き起こしてしまったということだろう。そのため、このエコー・チャンバーから抜け出すのはとても困難だ。


「「加害者家族バッシング」は日本特有の現象」https://kojitaken.hatenablog.com/entry/2020/10/12/085434


このエントリーを読んで、思い出したのは発達障害の息子を殺した元農林事務次官熊沢英昭のこと。熊沢の娘は兄のことを口実にして縁談が破談となり、自殺している*4。私は「破談」や「自殺」のことよりも、(熊沢を含めて)みんなこの「破談」や「自殺」について疑問を感じたり憤ったりしていないということの方が不思議だった。