「ほんの十年ほど前ですら」(井筒俊彦)

イマニュエル・ウォーラーステインの訃報を聞いて*1井筒俊彦先生*2の『意味の深みへ』を読み始めていたことを思い出した。その最初に収録されている「人間存在の現代的状況と東洋哲学」は、


人類の未来という大きなテーマになんらかの形で関わるような論議や会話が、最近、いろいろなレベルでよく行われるようになってまいりましたが、そんな時、「地球的*3」という形容詞が使われるのを屡々耳にします。例えば、「地球的危機」だとか、「地球的統一」「地球的融合」だとか。(後略)(p.11)
と始められている。また、

これが昔なら、いや、ほんの十年ほど前ですら、もし誰かが「地球社会」の構想などについて云々しだしたら、そんな人は、たちどころに、やくたいもない理想家か、さもなければ精々のところ、現実となんの関わりもない茫漠たる理念や理想を、己れの心のなかから紡ぎ出して、その幻影を追いかける理想主義者として片付けられてしまったことでありましょう。ところが今日の我々には、「地球社会」が、もはや少しも奇妙な幻想的響きをもたなくなってしまいました。この表現が喚起する意味形象は、幻想的で非合理的なものではなくなってしまった。それどころか、それは、少なくとも我々が未来を考え、未来における人間存在の基本的形態を心に描く場合の知的展望に欠くことのできない枢要なものとなりつつあるのです。この意味において、「地球社会」の観念は、今や、我々が世界と人類の未来図を構想する時、どうしても考えに入れざるをえない緊急問題の重要な一局面として、我々の思想と感情を決定的に支配し始めているといってよろしいかと思います。(p.12)
これが最初に書かれたのは1979年(「あとがき」,p.335)。『近代世界システム』第1巻が刊行されたのは1974年で、日本語訳が最初に刊行されたのはほぼこの頃、1970年代末から80年代初頭にかけて。