井筒俊彦の葬儀

死にぎわのわがまま

死にぎわのわがまま

承前*1

「かなり以前に井筒俊彦先生が亡くなったときなど、新聞の片隅にベタ記事が出ただけだった」と書いたのだが、高橋卓志『死にぎわのわがまま』(現代書館、1996)によると、井筒先生の死から1か月近く経った1993年2月2日の『朝日新聞』「こころ」欄に「葬儀、告別式しません」という記事が出て、その中で井筒先生の葬儀について触れられているのだという(pp.114-115)。高橋氏の本から孫引きしてみると、


新春の七日に急逝した世界的なイスラム学者で、日本学士院会員の井筒俊彦さんは、「大勢のひとをわずらわす葬儀はしたくない」という気持ちを家族に伝えていた。遺族からはだれにも連絡しなかった、という。鎌倉市にある自宅の書斎で行われた通夜、葬儀には、新聞を読んでかけつけた哲学界の長老、下村寅太郎さんら学者や、出版関係者、親族あわせて二十人足らずの人たちが参列した。導師をつとめた鎌倉の円覚寺雲頂庵の殿谷一成住職は「ひつぎは花につつまれ、本に囲まれ、送るべき人に見守られて送られた。僧としてすべきことをすることができた」と話す。(p.114に引用)
また著者が殿谷住職に直接聞いた話;

井筒先生は、以前から葬儀や告別式はしないとおっしゃっておられた。しかし、菩提寺の住職には、昔からの仏教のしきたりどおり、ねんごろにお参りしてほしいという意思が伝えられていた。そこには葬儀屋の主導による時間の制限や、弔問の人びとのペースに葬式を合わせることもなく、儀礼的な弔問客はご遠慮願い、身近な人たち、つまり別れを惜しむ人たちが納得して別れを告げられるという葬式があった。告別式は、井筒先生の書斎で、本に埋もれた中で行なわれた。そして故人が好きだった花に囲まれ、お棺には先生が生前愛用されたものが入れられた。これはすべて故人の(生前からの)希望であった(p.115)