「読む」「書く」(若松英輔)

生きる哲学 (文春新書)

生きる哲学 (文春新書)

若松英輔『生きる哲学』*1の終章「書く 井筒俊彦と「生きる哲学」」から。


本があり、時間があればそれを読むことができる、というのは表層的な事実に過ぎない。文字を追うことと「読む」ことはまったく異なる経験である。「読む」ということが本当の経験になるためには書物を読むときにも「光」を必要とする。それは書物を照らす物理的な光線とはまったく違う、私たちの内から湧き上がる内なる光である。
美の経験においても同じである。岡倉天心はそれを英語で書いた『茶の本』で、inner light(内なる光)あるいはspiritual light(霊光)とすら呼んだ。
人間は内なる光によって照らされた、二度と繰り返すことのない叡知との邂逅、それをさまざまなコトバによって世界に定着させようとしてきた。それが「書く」ことなのである。
このとき、「書く」とは、コトバを語ることではなく、むしろ、コトバが自ら顕われ出る、その通路と化すことになる。また、「読む」とは、言葉を超えて、その奥にあるコトバに出会うことになる。
ここで考えているのは、専門的、研究的に「読み」、「書く」人々のことではない。むしろ、市井の人間における「読む」ことと「書くこと」の可能性である。(pp.263-264)

ここで「読む」とは、記された文字を情報として取り込むことではない。コトバを媒介として、書いた者と対話することである。さらにいえば、新しいテクストを「創造」することである。
書かれた言葉は、読まれることによってコトバとなる。たとえばここにドストエフスキー(一八二一〜一八八一)の『罪と罰』がある。この本が真に小説としてよみがえるのは、真摯な読者によって読まれたときである。そのコトバはすでに作者であるドストエフスキーの経験を超えている。小説は、読まれることで変貌してゆく。小さな種子から樹木が育つように姿を変じてゆく。
「書く」とは、コトバを通じて未知なる自己と出会うことである。「書く」ことに困難を感じる人は、この本のなかで引用されている先人のコトバを書き写すだけでもよい。もし、数行の言葉を本当に引き写したなら、その人は、意識しないうちに文章を書き始めているだろう。そして、こんなコトバが自分に宿っていたのかと、自分で書いた文章に驚くに違いない。自分の魂を、真に揺るがすコトバはいつも自分から発せられる。人は誰も、コトバという人生の護符と共にある。コトバは見出されるのを待っているのである。
よく書けるようになりたいなら、よく読むことだ。よく読めるようになりたければ、必死に書くしかない。よく読むとは多く読むことではない。むしろ、一節のコトバに存在の深みへの通路を見出すことである。
必死に書くとは、これが最後の一文だと思って書くことにほかならない。
たとえば、もうこの世では会えない人に、今日書いた言葉だけは届くに違いない、そう思って「書く」。本気でそう思えたら、文章は必ず変わる。心からそう感じることができれば「読む」態度も一変する。
「書く」とは、単なる自己表現の手段ではなく、永遠にふれようとする試みとなり、「読む」とは、それを書いた者と出会うことになるだろう。そこに見出すコトバは、時空を超えてやってきた、自分に送られた手紙であることを知るだろう。(pp.264-265)