「九鬼文庫」(メモ)

日時計の影

日時計の影

中井久夫ヴァレリーと私――半世紀を超える有為転変」(in 『日時計の影』*1、pp.306-323)


中井氏は「偶然が、哲学者・九鬼周造*2の文庫のある神戸の甲南高校に私を導き、、また、さらに偶然が重なった」(p.308)、「私が九鬼文庫に出会っていなかったならば、今の私はないであろう」(p.309)という。「私は日本語の翻訳よりも先に、九鬼周造の書棚を再現した文庫の机上で超豪華版を含む当時既刊のヴァレリー本のほぼ全巻を、それもあるものは複数の版で出会ってしまったのは何ともいみじいことであった」(pp.309-310)。


九鬼文庫は、九鬼周造の死後、親友の天野貞祐が甲南高校校長に就任の際に九鬼の蔵書九千冊を挙げてこの七年制高校に寄贈させたものである。一九四三年五月のことである。甲南高校は九鬼の本棚図書室の奥の院に再現してこれに応えた。戦時下、天野は、思想問題で特別高等警察(思想警察)の捜査を受けた山岳部を鍛錬部に変えたりして不評を買い、早く甲南を去った。九鬼文庫があるのはほとんど偶然の産物である。
甲南大学新制大学の申請をする際、九鬼文庫を解体して、これを一般図書の中に散らばらせなければならなかった。そうしないと大学の蔵書数に算入せず、審査に不利だというのである。一九五一年秋のことであった。それまで八年余りの歴史のうちで、かつて九鬼の語学教師であるジャン=ポール・サルトルが利用してそこでハイデガーに出会ったといういわれのあるこの文庫を、けっきょく何人が利用したであろうか。高校生を引率して教師も工場に赴いていた時代、買い出しに一日を費やす時代であるからなおさらのことである。
文部省の車列が本館の玄関に向かうのを、私は少し離れて、昭和十三年の阪神大水害の土で出来た校庭の丘の上から眺めていた。本は持ち主の並べ方によってこそ生きも死にもする、何というひどいことを、といきどおりつつ――。(p.310)

二〇年が流れて、甲南高校の卒業生で京大卒の哲学科教授、佐藤昭雄*3の尽力で文庫は復元されたが、その目録になく私の記憶にあるものだけでも何十冊とある。私は記憶によってそのリストを送付した。佐藤教授も多数の紛失があることはわかっておられた。(p.311)