LGBTを超えて(千葉雅也)

村上由樹「他者の性と欲望認める 哲学者・千葉雅也氏 」https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45068080R20C19A5BC8000/


千葉雅也氏の言動については殆ど言及したことがなかった*1
少しコピペ;


近年は自身の性的指向をカミングアウトする著名人が出てきて、日本でも2010年代後半からLGBTという言葉をよく耳にするようになった。だが問題がある。「総称」でひとくくりにされることによって、個々の微妙な違いや衝突が見えなくなってしまうからだ。行政的なスローガンとなった「ダイバーシティー(多様性)」という言葉にも同様の難点がある。

私は、一人ひとりの性の複雑な差異に目を向けた「クィア*2という言葉を使いたい。一つの性的アイデンティティーには安住できない人を意味する用語だ。1990年代初頭、英語圏ジェンダーセクシュアリティー研究の中で提唱された。もとは「変態」「おかま」といった意味で侮蔑的に使われていた言葉だが、それをあえて肯定的にとらえ直した経緯がある。

また「マジョリティー(多数派)」の中にも「男(女)らしさ」という価値観に複雑な思いを抱き、男(女)でいることに居心地の悪さを感じている人はたくさんいる。このような人たちには「クィアさがある」といえるだろう。人間の性の様態はそれぞれ異なるということに目を向けなければならない。

「マイノリティー」を超えて;

同性カップルがマンションを借りられるようにしたり、パートナーシップ(結婚に相当する関係)を認めたりといった制度保障を進めていく努力は当然必要だ。だがこうした対応を求める社会運動の中にも、問題は存在する。「マイノリティーは弱者だから救済しなければならない」という論理が内在しているからだ。

こうした論理がなぜ出てくるかというと、そうしなければ今の社会ではマジョリティーの理解が得られないからだ。この論理を解体する別の論理をどうつくっていくのか。それが問われていると思う。

強いか弱いか、多いか少ないかが問題なのではない。人間には優劣ではなく、ただ差異があるだけだ。だから「自分と違う欲望で生きている人間がいる」ことをそのまま受け入れ、認めることが大切だろう。そうすることによって初めて私たちは単純な人間観を脱し、本当の意味で多様性に満ちた世界が可能になるだろう。