http://zakuro-no-mori.jp/yuri_pedophilia.htm
曰く、
これが「詭弁」だというのはわかるけれど、「属性」と「パーソナリティ」という対立がよくわからない。ただ、「同性愛」という振る舞い(conduct)或いは振る舞いへのレディネスとしての態度(attitude)というのが一方にあり、「属性」(ascription)としての「同性愛者」というのが他方にあるというのならわかる。また、振る舞い或いは態度としての「同性愛」が(自然主義的な意味において)実在するのに対して、「属性」としての「同性愛者」は他者からのレイベリング或いは当事者自らのアイデンティフィケーション(自己レイベリング)においてしか存在しないことは注意すべきだろう。両者は存在論的な身分が違う。
さて、近頃はいわゆる「クィア主義」の文脈において、
「同性愛を肯定するなら、
同じセクシュアル・マイノリティである
ペドフィリアも肯定するべきだ」
といった主張を目にするようになった。
しかし、
これは「属性」としての“同性愛”と
「パーソナリティ」としての“同性愛者”を
混同した詭弁に他ならない。
まあ、「同性愛を肯定するなら、同じセクシュアル・マイノリティであるペドフィリアも肯定するべきだ」を駁するには「あらゆる犯罪は革命的である」*1わけねぇだろといっておけば足りるだろう。或いは、敵の敵は味方だとは限らない。
「チャイルド・マイスター」なる言葉を初めて知る。でもどうして、英語と独逸語がごちゃ混ぜになってるの? 「本来ペドフィリアではない者が成人の代わりに幼児を性欲の捌け口にする」。たしかにそういうこともあるだろう。例えば、宮崎勤はそうだったらしい(佐木隆三「『連続幼女誘拐殺人事件』の宮崎勤」『波』[新潮社]490、p.88、2010)。しかし、「属性」としてのセクシュアリティというのは決定不能なところがある*2。「同性愛」的な振る舞いをしたからといって「同性愛者」になる(ならされる)とは限らないし、逆にそのような振る舞いをしなくとも「同性愛者」というスティグマを捺されることもある。欲望の次元で言えば、或る欲望が存在するということは比較的簡単だろう。しかし、それらがないと断言することは難しい。自分や他人が気づいていないだけかも知れないし、自分や他人が正しく認識できるかどうかも確実ではない。
ちなみに、「本来ペドフィリアではない者が
成人の代わりに幼児を性欲の捌け口にする」ケースを指して
「チャイルド・マイスター」という言葉があり、
ペドフィリア擁護派はしばしば
「ペドフィリアが必ずしもチャイルド・マイスターになるとは限らない」
という理屈で両者の違いを強調する。
そして、
幼児犯罪の大半がペドフィリアではなく、
「チャイルド・マイスター」によって行なわれるのだと言う。
この主張は、
「性的指向」としての同性愛とは別に、
周囲に異性がいない環境の中で
同性を異性の代替として恋愛の対象とする、
「性的嗜好」としての同性愛(機会的同性愛)が存在することに対応している。
言うなれば、
ペドフィリアは「指向」、
チャイルド・マイスターは「嗜好」という捉え方である。
これはその通りだろうと思う。ただ、問題は「社会的・肉体的力関係の差」というよりも、子どもは性的な事柄に関する「判断能力」がないと社会的に考えられていることだろう*3。そのため、合法的な性交渉の基本であるインフォームド・コンセントが成立しないと考えられること。
幼児との性交渉が本質的に「大人」と「子供」という
社会的・肉体的力関係の差を内包している以上、
それは一方的な「性的搾取」にしかなりえず、
仮にペドフィリアを「指向」としてみたところで
健全性の根拠にはならない。
むろん[性犯罪を]*4助長するものでもないだろうけれど、漫画やアニメ、ゲームといったオタク文化(いわゆる「二次元」)は、
「現実社会(三次元)のマガイモノ」ではなく、
それ自体が独立した嗜好(セクシュアリティ)として機能している。
したがって、
「性犯罪を助長するものではないが、
かといって抑止するものでもない」というのが模範解答であろう。