ハラスメントを巡って落書き

立命館大学における写真撤去事件を巡っては、http://d.hatena.ne.jp/tzetze/20090123/1232712191を参照。また、読むのに不快感を耐え忍ばなければならないが、http://14471.iza.ne.jp/blog/entry/898876/にも新聞記事が全文引用されている。私はその作品を見ていないので、それについて云々することは断念しなければならない。
これを巡って、天原誠という人が「立命館大学におけるセクハラ写真の撤去を支持する」というエントリーを書いている*1。このエントリー、ことを「異性愛」対「同性愛」の対立で語っている、またどうやら「性同一性障害」を「同性愛」(或いは「ゲイ」)と取り違えているらしいという事実認識の準位における問題性がある。「クィア」という言説的なスタンス、また「性同一性障害」はまさに「異性愛」/「同性愛」という対立を脱構築するものとしてあるのだが。また、「性同一性障害」については上川あやさんの本*2でも読んで下さい。

変えてゆく勇気―「性同一性障害」の私から (岩波新書)

変えてゆく勇気―「性同一性障害」の私から (岩波新書)

さて、天原氏曰く、

先頃、タケルンバという人が、企業のグループディスカッションで性的な話題をすることについて何の批判もせず、むしろ批判してきた人に対して「こんなのをセクハラと呼ぶようじゃ、社会では生きていけないよ」と述べて、それに対してはてなサヨクなどが強烈な批判をしていたのを覚えている。

しかし、同じようなセクハラを同性愛者が行うと、今度は一転「こんなの当然なこと」となるのは何でなんだろう?

タケルンバのような異性愛者のセクハラは「きたないセクハラ」で、同性愛者のセクハラは「きれいなセクハラ」とでも言うのだろうか?

ぜひ、意見を聞かせて欲しいものだ。

http://d.hatena.ne.jp/takerunba/20090116/p2ですね。先ずは上に述べたように、「同性愛」か「異性愛」かという問題じゃない。それよりも、多分「セクハラ」、さらに一般的に言ってハラスメントの定義が問題なのではないか。
私は、「タケルンバ」氏が人伝に聞いたというあの「グループディスカッション」は「セクハラ」に属する嫌疑が強いと思う。それは何故かと言えば、その「ディスカッション」が企業の新入社員研修というセッティングにおいて行われたというからだ。(少なくとも社会問題になりうる)ハラスメントはたんに相手に「不快感」を与えることによって成立するものではないだろう。http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090129/1233197112で述べられているように、権力作用(権力関係)が関係している。権力関係を背景に、(「セクハラ」の場合だったら)〈性〉をダシにされて、具体的な利益が損なわれること(また、そのような懸念を抱かせること)。学生だったら、(教員との関係で)単位を落とされる、成績を下げられる、大学院進学や就職に必要な推薦書を書いてもらえない、等々。労働者の場合だと、昇給や昇進で差別される、さらには不当に解雇されるなど。「ディスカッション」の話に戻れば、何やら〈正解〉らしきものが想定されているらしい。新入社員研修というセッティングにおいて、教育を行う側(会社)が想定した〈正解〉から外れた意見を「ディスカッション」で述べたら、入社後の処遇に悪影響が及ぶということは十分に予測できる。このご時世なので、ひょっとしたら〈内定取消〉になるかも知れない。セックスが絡んだ「ディスカッション」が問題なのではなく、そのようなセッティングにおいて強制的に参加させることが問題だということになる。それに対して、今回の「写真」の問題に、このような具体的な利害関係、権力関係が絡んでいるのだろうか。

話は変わって、冒頭でURLを掲げたnekoponなる人、http://d.hatena.ne.jp/vanacoral/20090205にその「【湯浅誠】帝国ホテルの豪華パーティー、無事終了(嘲)」なるエントリー*3が引用されている。私が反応したのは、「別役実なんて聞いたこともねぇよ(笑)。鳥肌実の親戚か?」という部分。「別役実なんて聞いたこともねぇ」ことを恥じないことを恥じろとは言っておきたい。たしかに「面白い人ですね」ということなのだけれど。