クィアな視点

 承前*1

 ひびのまことさんのコメンタリー。重要な視点だと思うので、長文を厭わず、以下に引用してみる;


私(ひびの)は、上野さんとは意見が異なり、「ジェンダー・フリー」を単に「男女平等」に置き換えることには反対です。なぜなら、この置き換えをしてしまうと、「ジェンダー」の概念や「ジェンダー・フリー」の運動が持っていた問題提起の射程を狭めてしまうからです。
 少なくともバッシングが激しくなる前は、「ジェンダー・フリー」の運動の現場ではLGBTIの問題が積極的に取り上げられてきたと思います。また「男でも女でもない人」の存在と権利を積極的に肯定する雰囲気があったと思います。また実際、私は、そういった雰囲気と運動の中で、LGBTIAQへの差別を問題化する発言の場をもらって/獲得してきたという事実もあります。
 そして、「ジェンダー・フリー」を「男女平等」とまとめてしまうことは、仮にその意図はなくても、「LGBTIAQへの差別を問題化する視点」を切り捨ててしまうものに思えるからです。
 というのも、LGBTIAQへの差別を問題化するためには、「男女平等」は前提として踏まえるべき論点(だから例えば、自身の男性中心主義に鈍感な一部のゲイ活動家の言説は批判されるべき)ですが、「男女平等」だけでは例えば同性関係嫌悪(ホモフォビア)や性別二元主義、性愛強制主義の問題点を問うことができません。実際に、各地での「男女共同参画条例」をめぐって、バックラッシュ側が「男女差別は確かにいけないが、同性愛を奨励するのは問題だ」などと言っている事実を見るとき、「男女平等」では収まりきらない論点をあえて自覚的に出していく必要性を強く感じます。
 また、「男らしさ」「女らしさ」の強制の問題は、例えば「典型的な男」ではないゲイ男性やバイセクシュアル男性の問題でもありますし、トランスジェンダーは毎日「らしさ」の強制と向きあわされています。「ジェンダー・フリー」の運動と認識は、そのもともとの出自を越えて、女性差別や男女平等だけではなく、同性関係嫌悪や性別二元主義をも問う射程を現実に持ってしまっています。
 言い換えると、「性(別)に関わる差別と権力関係」には、男性中心主義だけでなく、異性愛中心主義や性別二元主義、そして性愛強制主義といった様々な問題があることが、今では明らかになっています。バッシング派は、これらのどれか一つだけを攻撃しているのではなく、まさにこれら全てを問題にし、攻撃をしてきています。この状況の中で、焦点を「男女平等」だけに絞るということが、本当にバッシング派への反撃になるとは思えません。
 さらに、最も分かりやすく言うと、そもそも「男女平等」という表現は、この世界には男性と女性しかいないという性別二元主義/「男女という制度」の枠内の認識/表現だと思いますし、その言葉を使うことによって「男でも女でもない人」の存在を一層不可視化してしまいます。私にとっては、女性差別「だけ」を特に問題化する必要性がある場合以外は、できるだけ使わない言葉です。
(「「ジェンダー・フリー」に触れる「可能性がある」人は、講師になれない?」http://weblog.barairo.net/index.php?id=1138034023
 上野氏と「ジェンダー・フリー」という言葉については、取り敢えず、http://homepage.mac.com/saitohmasami/gender_colloquium/gencolre1.htmを参照されたい。
 デリダを模倣して言えば、脱構築の前提として顛倒は必須であり、現在争われているのは、その前提を巡ってなのだ。