「ジェンダー・フリー」を巡るマテリアル幾つか

 承前*1

 先ずはhttp://plaza.rakuten.co.jp/hisahito/diary/とかありましたが、これはあくまでも〈ヲチ〉の対象にすぎず。
 ここからがマジ。

 上野千鶴子氏が今回の経緯について書いたもの及びThe Foreign Correspondents' Club of Japan*2のお報せは、http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20060126/p2に転載されている。
 フェミニズムにおける「ジェンダー・フリー」概念批判としては、


斉藤正美「行政の保守性を議論しない「ジェンダーフリー」論争」http://d.hatena.ne.jp/discour/20060118
macska「実は5年も前からジェンフリ教育論を批判していたわたし」http://d.hatena.ne.jp/macska/20060125/p1
山口智美「「ジェンダー・フリー」をめぐる混乱の根源(1)& (2)」http://homepage.mac.com/tomomiyg/gfree1.htm


 「クィアな視点」ということだと、Matzmt Maskeeさんの「バイセクシュアリティについて」*3を興味深く読む。その思索の深さに敬意を表しつつも、付け加えるべきは、私たちは〈区別〉からは逃れられない、ある(悪しきものと考えられた)〈区別〉は他の〈区別〉に置き換えられることによってしか相対化されえないということである。単純な思考をする人がこのテクストを読んだら、〈区別〉からの(全き)自由という幻想を抱くこともありうると危惧したが故に、トリヴィアルなことを差し挟んだ。それを踏まえた上で、〈区別〉が実際に使用される場合のレリヴァンス問題、〈区別〉を流動化させる具体的な方略が問われるということになるのだろう。
 私見では、昨今の「ジェンダー・フリー」に対するバッシングというのは、先ずコノタシオンのレヴェルにおけるバッシングとして捉えられるかと思う*4。例えば〈女〉のコノタシオンを強権的に、独占し・固定しようとする欲望。さらに、大袈裟でロジカルにも飛躍していると思われるかも知れないが、それはwhoをwhatに還元し尽くそうとすること、whoが存立する隙間を埋め尽くそうとすることに関係していると思われる。この問題が(「フェミニスト」ではない)私の理論的関心と被るのはこの辺りなのかなと思った次第。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060125/1138154508

*2:http://www.fccj.or.jp/

*3:http://d.hatena.ne.jp/kleinbottle526/20060124/1138057315

*4:勿論、デノタシオンを全く問わなくていいというわけではない。