ライヒについて雑談

承前*1


そもそものhttp://www8.ocn.ne.jp/~senden97/kihonhou_13_123.htmlにはライヒの名前はなかったようだが、http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20061018/p2に引かれた西尾幹二八木秀次の対談本によると、「ジェンダーフリー」と「フランクフルト学派」を結びつけるキー・パーソンはヴィルヘルム・ライヒらしい。ライヒを名指して、「フランクフルト学派だ」と叫んだのは西尾氏。一応、この方、独逸思想の研究家ですよね。ライヒなどとフランクフルト学派の一部を一緒に〈フロイト左派〉として括って論じるということは一部にはある。しかし、その場合でも、フロイト左派=フランクフルト学派ということにはならない。伝統的なブルジョワ家族の変容がファシズム受容への人格的基礎を用意したというフランクフルト学派主流の考察というのは寧ろ保守主義の議論と響き合うものを持っていたと思う。
さて、ライヒの思考というのは同性愛も認めていないし、〈突っ込むことしか考えていない〉という感じで、ファロサントリスムをラディカルに追求した感がある。なので、当然現代のフェミニズム、ポストフェミニズムクィア理論等とは相容れないところがある。その単純な〈抑圧−解放〉図式は既にフーコーの批判するところである。私の場合、ライヒに対する評価というのは、リチャード・キングの『エロスの社会学

エロスの社会学―現代アメリカのラディカル思想

エロスの社会学―現代アメリカのラディカル思想

に依拠するところが大きいのだが、ライヒのエロス観というのは(フランクフルト学派の一員ではある)マルクーゼから見ても、問題がある。というのは、マルクーゼは『一次元的人間』
一次元的人間 新装版―先進産業社会におけるイデオロギーの研究 (現代思想選 3)

一次元的人間 新装版―先進産業社会におけるイデオロギーの研究 (現代思想選 3)

において、近代においてエロスが局所化されてしまったことを批判しているからである。マルクーゼからすれば、俗流フロイト主義、或いはそれを真に受けた批判というのは、エロスの局所化の症候にほかならないことになる。当然、ライヒも〈俗流〉ということになる。
ライヒの晩年について、八木秀次

そうです。共産主義です。ライヒフロイトの弟子で助手をしていましたが決別します。彼はドイツ共産党左派でしたが、あまりに過激だったので、ドイツ共産党からも除名されます。その後、北欧を経てアメリカに亡命し、結局、気が狂ってアメリカの刑務所で獄死するという人生でした。
また、buyobuyoさんは

ライヒは初期フロイトの「性欲理論」をとことんまで突き進めた人物、と言うのが一般的な見方か。フロイトは、自説が社会に受け入れられるにつれ、初期の過激な部分を去勢していったのだが、そのあおりを受けてライヒは爪弾きにされる。ライヒは、性の全面解放によって、精神的な問題は解決されると考え、性の解放を社会に求めた。当時としては過激な彼の考えは、様々な団体、政権に手酷い拒絶を受け、ライヒは徐々に壊れていくのである。

晩年には、大宇宙のエネルギー「オルゴン」の「発見」とその普及に、心血を注ぐ。大槻が歌う「天使を呼ぶ機械」のモデルとなった雨を降らす機械「クラウド・バスター」を引きアメリカを行脚し、過去の自著をオルゴン化していった。
http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20050926

と述べている。確かに、第三者的に見れば、とち狂ったトンデモ・オヤジにすぎないだろう。ただそれだけでは済まされないところもある。何しろ、ケイト・ブッシュも晩年のライヒに注目していたからだ。”Cloudbusting”は息子の視点から晩年のライヒを歌ったもの*2
The Hounds of Love (+6 Bonus Track)

The Hounds of Love (+6 Bonus Track)

ライヒ

You’re like my yo-yo
That glows in the dark


What made it special
Made it dangerous
So I bury it and forget.


(父さんは暗闇に輝く
僕のヨーヨーみたい


特別であるがゆえに
危険
だから、埋めて、忘れてしまおう)

また、

On top of the world
Looking over the edge
You could see them coming
You looked too small
In their big black car
To be a threat to the men in power.
(世界の頂きに立って、
隅から隅まで見回して
父さんには奴らが来るのがわかっていたのかも
奴らの大きな黒い車の中では
父さんは小さすぎて
権力者どもの脅威にもなれなかったね)
と歌われている。
ケイトの歌詞は全体として先ず、


 雨(rain)/太陽(sun)


の二項対立に貫かれており、sunはsonと掛詞になっており、雨(rain)/太陽(sun)という対立は父親/息子という対立を換喩的に喚起する*3。父親/息子という対立がさらに喚起するのは忘却/記憶という主題である。


You’re like my yo-yo
That glows in the dark


What made it special
Made it Dangerous
So I bury it and forget.

は、

I hid my yo-yo in the garden


I can’t hide you from the government
Oh God, daddy—I won’t forget
(ヨーヨーは庭に隠した


父さんを政府から隠すことはできないよ
Orz、父さん、僕は忘れるものか)

と拮抗/共存しているのである*4。何よりも、父=ライヒは夢に現れて(息子の)眠りを妨害する存在なのである。
因みに、パティ・スミス姐さんも息子の視点からヴィルヘルム・ライヒを歌っている。
また、「オルゴン化」した後のライヒに多大な影響を受けた日本人を思い出した。数十年前の左翼(の一部)に影響を与え、1980年代以降のウヨ(の一部)に影響を与え続けている筈のドラゴン、つまり太田龍だ。ダウジングの〈科学性〉も「オルゴン」によって説明できるんじゃなかったっけ。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061015/1160883587

*2:http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20050926の「ライヒには娘がいて、その子供をつれて機械を動かしてみせたと言うエピソードがあった記憶が」というのは息子ではないかと。

*3:PVでは、ケイトがジェンダーと戯れていることを記しておかなければならない。

*4:このケイトの歌詞の重要なポイントは、動詞の時制の使い分けかも知れない。