ナショナリズムと「クィア」、或いはリベラルとリベラルではない者との共生の問題

GREGORY CROUCH
"A Candid Dutch Film May Be Too Scary for Immigrants"


によると、先週から、阿蘭陀への移民を希望する者に対しては、"entrance examination"が課せられるようになった。試験内容は阿蘭陀語の知識と"the Netherlands' liberal values"についての知識。試験の実施にあたって、阿蘭陀政府はDVD付きの"a package of study materials for the new exam"を刊行した。それに対して、移民の権利を擁護する団体(記事に登場するのは"Emcemo"という"a Moroccan interest group in Amsterdam")から"an attempt by the government to discourage applicants from Islamic countries who may be offended by its content"だとする批判が出ているという。特に問題となっているのは、"the Netherlands' liberal values"を説明するものとしての"nude beaches"の映像とキスをする男性カップルの映像。勿論、阿蘭陀政府関係者はそのような嫌疑を否定している。また、


The film indulges in a dose of Dutch frankness. Besides the snippets on homosexuality and nudity, it features a run-down neighborhood largely populated by foreigners plus interviews with immigrants who do not always describe the Dutch in flattering terms, calling them at one point "cold" and "distant."

The film warns of traffic jams, integration problems, unemployment and even possible flooding in a country largely below sea level. Some immigrant success stories are showcased, but one newspaper joked that the tourist board would give the whole production a thumbs down.

と阿蘭陀社会のネガティヴな側面に触れている。観光プロモーションにせよ、企業向けの投資誘致にせよ、政府が出す刊行物というのはいいところしか見せないのが通例だと思うので、異色といえば異色。さらに批判に対して開き直っていればいいのに、"nude beach"のトップレスの女性やゲイの映像をカットした修正版を出したという。ということは、批判されているような下心が全くないとまではいえないとも解釈できる。

多分問題なのは、この「試験」が米国やEU諸国のような一部の国の出身者に対しては免除されているということである。EU諸国の場合、既に厳密な意味で〈外国〉とはいえない筈である。これが抗議を受けたとは記事には書いていない。もしこの根本的な差別性に抗議しないで、トップレスの女性やゲイの映像にいちゃもんを付けているとしたら、やっぱりムスリムの連中はリベラルな価値を尊重しないというイメージを社会的に植え付けてしまいかねないことになる。そして、ムスリム系移民の社会的立場もさらに悪化しかねないということで、抗議運動としては失敗なのではないかと思ってしまう。そもそもそれ以前の差別性からして、意識されないものであるにしても、阿蘭陀政府の下心の存在を否定することはできない。「リベラルな価値」の擁護というのも怪しくなる。何しろ、米国には「リベラルな価値」なんか洟も引っかけないような奴らがうじゃうじゃいるからだ。なので、攻撃目標を間違えているというのが私の感想。
macskaさんは、この記事を紹介しながら、「現在では性的な解放・女性の自由・同性愛者の権利といったリベラルな価値観がネーション保持のために倒錯的に利用されていることになる」、「クィアはネーションを脅かす存在だったはずなのに、いつの間にかネーションに飲み込まれてそれを保持するための排外的なツールの一部としてネーションに奉仕してしまっているみたいな」と書いている。nationというのは、そもそもstateの統治下にありながらnationに統合されていなかった人々を統合していく(ネガティヴな言葉遣いをすれば取り込んでいく)ものだともいえよう。今まで、そのようにして労働者階級や女性がnationに取り込まれてきた。或いは、ノーマライゼーションという仕方で障碍者も。〈先進的〉な国では今度は「クィア」の番と言えるのかも知れない。いうまでもなく、こうした統合=取り込みは両義的ではある。

それよりも、この問題は「リベラル」な人が社会全体の「リベラル」さを維持しつつ、「リベラル」ではない人と如何にして共存するのかという、或る意味では今始まったわけではない問題を突きつけているとも言える。今度は、「リベラル」であることを誇示することが「リベラル」ではない(と少なくとも思われている)人々を排除してしまうのではないかという問題として。また、それが「リベラル」とはいえない意志の手段として利用されてしまうのではないかという問題として。
ところで、この記事を読みながら、今から10数年前に〈社会主義圏〉が崩壊した際に、対抗文化が取り込まれたという側面もある西側のポップ・カルチャーが果たした役割というものにも思いを馳せた。