奪う時間、与える時間


わたしたちは、時の「奪う」力にはいつでも敏感です。誰でも老いて死に近づくのは怖いです。納期が迫り、若手にポジションを脅かされる。日常生活のほとんどで、時は「脅威」として振舞っています。
 でも、そうした時の残酷さも、もっと地の部分で圧倒的に時が「与えて」くれているからこそ、初めて成り立つものです。こう書くと高尚ですが、要するにほっといても植物やら動物やらは育つし、生き物は基本的にその辺に生えているものをテキトーに食べているものだ、ということです。
http://cyborg.relove.org/thought/eat_without_work.html
そういえば、「西洋の図像学における、あの草刈り鎌を持った死神というのはつまるところ、〈時間〉の擬人化ではあろう」と書いたことがあった*1。これは一方では「奪う」時間なのだろうけど、「草刈り鎌」ということは、時が熟して草が成長したからこそ草を刈れるわけで、同時に「与え」る時間でもあるわけだ。
「世界時間」については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080605/1212640212で言及。