「変わらない」?

北村肇「この国のゆくえ14……原発をめぐる状況は、35年前と変わらない」http://www.kinyobi.co.jp/blog/?p=2906


週刊金曜日』の「発行人」であるそうな。
後半では羽田澄子のTVドキュメンタリー「いま原子力発電は……」が採り上げられている。それは「現在言われている反原発の議論は、一九八〇年代に既に全部言われていることですね」(柄谷行人*1ということに関わっている。そして前半。最初に読んだとき、後半部との繋がりがいまいち見えなかった。曰く、


神社仏閣は、いつの時代も人気の観光スポットになっている。宗教心をもった人が、そうたくさんいるとは思えない。足を運びたくなる理由の一つは、「変わらないもの」への希求だ。人は老い、死ぬ。人生の下り坂を歩いていることに気づいた人は、老いに恐怖し、「変わらない時間」を求める。だから、時代を超えた神社仏閣に触れたとき、ほっとするのだ。

 確かに、生まれ育った土地に行き、小さいころ遊んだ神社の大木がそのままに立っている姿を見たときなど、言いようのない安堵感がある。しかし、宇宙は1秒たりとも停止することなく、時間の固定はその摂理に反する。皺が増えようが、足腰が弱ろうが、心や精神はとどまることなく1ミリずつでも成長している、それが人間だ。

(必ずしも不倫とは限らない)中高年のカップルにとって、些か寂れた場所にある「神社仏閣」は恰好のデート・スポットではある。それはさて措き、「神社仏閣」といっても「神社」と「仏閣」は一緒にできないのではないかと思う。日本の例ではないのだが、中国で仏教寺院は何処でも参拝者で盛況だ。しかし、寺の建物の多くは文革中に破壊され、1990年代以降再建されたものなので、そこから直観的に「変わらないもの」を看て取ることは難しい。北村氏は「小さいころ遊んだ神社の大木」の例を挙げている。鷲田清一氏は「古くからの都会にあってニュータウンにはないもの」は「大木と宗教施設と場末の悪所」であると述べていた(「マイ・アトラス」『ことばの顔』*2、p.280)*3。「大木」。変/不変を対置するのはどうかなと思う。「大木」だって刻一刻とした成長或いは衰弱の過程にあるわけだし、毎年新しい葉っぱをつけたり落としたりを繰り返しているのだろう。多分、重要なのは時間のスケールなのだ。「大木」が「変わらないもの」のように見えるのは、私たちが属している時間と「大木」が属している時間が違うからだ。「大木」といえば、山本周五郎の『樅の木は残った』の樅の木。それは、世俗的な時間、つまり伊達騒動の是非、原田甲斐は逆臣なのか忠臣なのかといったことが云々されるような時間とは全く違う時間に属するもの。たしかに「大木」は世俗的時間から見れば〈不変〉に見える。ここで、それは私たちが生きる〈世界〉の存立に関わっているといっておこう。世界とは定義上、私が生まれる以前に存在し、私が死んだ後も存在するだろうものだからだ。これについては、シュッツ&ルックマン『生活世界の構造』における「世界時間(world time)」についての議論も参照のこと*4。また、異世界と異なる時間の関係については、中野美代子先生の『中国春画論序説』も見られたい。
ことばの顔 (中公文庫)

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樅ノ木は残った(上) (新潮文庫)

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樅ノ木は残った(中) (新潮文庫)

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樅ノ木は残った(下) (新潮文庫)

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Structures of the Life-World (Studies in Phenomenology and Existential Philosophy)

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中国春画論序説 (講談社学術文庫)

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