2月11日に生まれて

先週のことだったか、『毎日新聞』に「由紀夫」から「友紀夫」に改名するらしい*1鳩山由紀夫へのインタヴューが載っていた。それを読んで、「由紀夫」というのは2月11日つまり紀元節に生まれたことに因んだものだということを知った。まあこんなことは、鳩山由紀夫に複雑な思いを持っているだろう小沢信者の方々や右翼・左翼のコメンテーター諸氏には、何を今更という感じの知識なのだろうけど。別に、ここで鳩山氏の父(鳩山威一郎)の天皇主義的なセンスを批判したり賛美したりするつもりはない。何故気になったのかといえば、最近菅原和孝『ブッシュマンとして生きる』*2を再読していたからだ。ブッシュマン(「グイ/ガナ」)の子どもへの命名法を巡って、


川田順造は、世界の諸民族の名づけの慣習を「あやかり」と「ちなみ」に大別している(『聲』筑摩書房)。聖人の名をつけることも、めでたい意味の語をつけることも、わが子がなんらかの高い価値に「あやかる」ことを願うものである。それに対して、ある出来事に「ちなんだ」名づけは、こうした価値づけとは無縁である。
この川田の二分法とほとんど同じことだが、私は、「祈念」と「記念」という語呂合わせを用いたい。わが国の親たちが「良い名前」をつけることによって、わが子の幸福な人生を「祈念」するのに対して、グイ/ガナは、名づけによって印象的な出来事を「記念」する。後者の場合、個人名は、共同体の成員が過去をふりかえるための「記憶装置」として役立つのである。(pp.40-41)
と書かれている。例えば、「キレマ−カオホ」という人は「研いでやる−ナイフ」という意味。本人によれば、

[多分妊娠中に]父さんが家に帰ったら、母さんが愛人といっしょに小屋の中にいたんだ。父さんは、小谷野外にすわり、石でナイフを研ぎはじめた。そして、「早く帰れ、帰らんとこのナイフでお前を腹を裂くぞ」と言っておどしたんだ。(p.27)
修辞学的に言えば、前者は隠喩、後者は換喩ということになるだろう。
ブッシュマンとして生きる―原野で考えることばと身体 (中公新書)

ブッシュマンとして生きる―原野で考えることばと身体 (中公新書)

声 (ちくま学芸文庫)

声 (ちくま学芸文庫)

そういえば、生まれてくる子どもの名前を(時には夫婦喧嘩をしつつ)考えていたとき、世の中にはもっと気楽な仕方で子どもの名づけをする人もいるということも知っていた。例えば節分に生まれたから節夫や節子。生まれた日に雪が降っていたから雪子。そういえば、永井良和氏が『南沙織がいたころ』を書いたきっかけのひとつは授業の受講者に「沙織」という名前の女子学生を何人か見つけたことだっという。彼女らは「南沙織」に「あやかり」命名された可能性がある。永井氏も採り上げていたが、オリンピックがあった1964年生まれには聖火に因んで「聖」という字を含む人が多いという。橋本聖子とか*3
南沙織がいたころ (朝日新書)

南沙織がいたころ (朝日新書)

さて、所謂小沢信者にとって、「一郎」とか「一秀」と子どもに名付けたり、「一」という字を使ったりすることは推奨される行為なのだろうか。それとも、畏れ多いタブーなのだろうか。なお誰かにあやかって「徹」と名付けられた子どもが将来いじめられたり・ぐれたりしませんように!

*1:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120205/1328448947

*2:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080723/1216785625

*3:松田聖子はどうなのかと思ったが、1962年。しかしそもそも「聖子」は藝名であり、本名は「法子」。