「承認欲求」以上?

hayasinonakanozou「「もう二度とSNSができない身体にしてほしい」、あるいは本当は恐ろしいインターネット」https://hayasinonakanozou.hatenablog.com/entry/2025/01/27/033110


「承認欲求」*1に憑かれた女性を主人公とした本谷有希子の『セルフィの死』のレヴュー。この本は勿論呼んだことはない。まあ、本谷さんには何故か苦手意識を持っていて、ぺらい本だけど過去に途中で読むのを放棄している。にも拘らずこのエントリーを取り上げたのは、その後半部でインターネット一般の話をしているからだ。


宇野常寛さん*2は『平成ネット史』でこう述べている。

 インターネットが証明したことって、結構残酷な真実があると思うんですよ。

 それは、インターネットが誰もに発信の権利を与えても、「発信に値する中身」を持っている人って、ほんの一握りしかいないということ。そんな中、「いま、こいつには石を投げてOK」というサインが出てる人間に石を投げたり、人をいじめたり、自分にとって都合のいい情報を拡散したりする。これってものすごくハードルの低いことで、発信に値するものを何も持ってない人にとっての自己実現なんですよね。その悪魔の誘惑を与えてしまった面があると思うんですよ。

俺も含めて、大半の人間には「発信に値する中身」なんて持っていない。にも関わらず、自己顕示欲をこじらせてインターネットを利用してどうでもいいことであっても発信せずにはいられない。インターネットによって人間に生まれた新たな欲求だろう。相互フォロー、「いいね」の応酬、リポストなどはブログに記事を書くよりもっと手軽な発信だ。そこにはもう馴れ合いしかない。現実でもネット上でも人は群れずにいられない。群れて、メンバーからの承認を得ずにはいられない。
まあ「発信に値する中身」が最初から存在するのではなく、そうかかどうかを決めるのは〈他者〉だろう。だから、昔から、恩師とか畏友とかが必要とされたわけだ。昔風のそれらに替えて、ネット上の「承認欲求」が「発信に値する中身」であることを確証するために必要とするのは「フォロワー」や「いいね」の数なのだろう。
さらに、「承認欲求」では捉えられない、「承認欲求モンスターたちの応酬なんて牧歌的なもんだ、かわいいもんだ」と思わせる「兵庫県知事選に絡む一連の事件のこと」が言及される。

ネットにデマを拡散して個人を中傷し家族までも追い詰める。耐えきれずに自ら命を断った人に対して「あの程度で死ぬなんて」と侮辱する。表立って批判しようものなら特定され、暗くなってからでないと外出できないほど怖い目に遭わされる。反論や批判を暴力によって封じる。恐ろしい。少し前までこんなののシンパはネットde真実に目覚めたネットリテラシーの低い人たちなんだろうと思っていたのだけれど、最近は逆で、ネットリテラシーの高い人たちなんじゃないか(もしくは主要メンバーなんじゃないか)、という気がしてきた。党首の一連の行為に確信犯的に乗っかって面白半分に加担しているんじゃないか。昔の2ちゃんねるの「祭り」で個人を「特定」していた連中のようなノリで。彼らは下の記事にあるように「虚偽を含む動画投稿は、やったもん勝ちの世界」であるのを熟知しているのだろう。中傷やデマの投稿はたやすい。しかしされた側は一つずつ否定していかないといけない。分が悪い戦いだ。

竹内県議の死*3に関して恐ろしいのは、上の動画の最後で言われているように*4、一人の人間がいわれのない中傷によって追い込まれていくプロセスがコンテンツとして社会に消費された点にある。悪質なアカウントはプラットフォームが規制してくれればいいのだが、PVが増えるほど広告収入も増える仕組みになっているから彼らが規制に動くインセンティブは弱く、だから期待できない。
(略)
インターネットは今や現実世界と地続き。そして現実世界以上に不寛容な目が昼夜を問わず互いを監視している。隙をついてキャンセルしたり、炎上させたり、いわれない「疑惑」をでっちあげて死ぬまで誹謗中傷したりしようと窺っている。2000年代前半、ウェブ2.0なんて言葉に高揚していた頃の自分は無垢だった。そして無知だった、人間について。人間って、インターネットをこんなふうに使うんだ、という失望が、今ある。
これはたしかに「承認欲求」では説明はできないだろう。しかし、「党首」と「党首の一連の行為に確信犯的に乗っかって面白半分に加担している」信者のロジックは区別するべきだろう。