を巡って。
(前略)何故、自分のアカウントや場所を持たないのか? また、自分の場所を持たず、他人の附属品であるコメント欄に寄生するという行為は何時頃からあるのか? というのも疑問だった。
https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2025/01/31/130359
20世紀のうちはウェブで自らが情報発信することはハードル」が高かったけれど、21世紀に入って、WEB2.0というようなことが言われ、具体的にはシステムとしてのblogや各種ソーシャル・メディアが開発され、自前のメディア(アカウント)から情報や意見を発信するハードルは階段1段分よりも低くなったと考えた。2ちゃんねる的な問題も、光ファイバーの一般化やi-Modeの登場によってネット接続へのハードルが低くなったこととWEB2.0以降的なツールの開発の時間差が関係してるかも知れない。
しかし、考えを進めると、(現在に繋がる)WEB2.0以降とそれ以前を比べると、送り手/受け手というメディア論的区別が決定的に変わってしまったということに気づいた。20世紀のうちは、インターネットのコンテンツはTVや新聞をモデルに考えられていて、コンテンツを「番組」と表現するわかりやすい解説記事もあったが、ともかく、ネットにおいても送り手と受け手の区別(分断)は当然のことと考えられていた。ただ、html言語を覚えるという条件で、両者を隔てる壁は少しは低くなったけれど。しかし。WEB2.0以降の、特にソーシャル・メディアでは、両者の区別が消滅してしまったのだ。(昔のMIXIみたいなクローズドなそれでなくとも)各種SNSの、非メンバー(アカウントを持っていない人)の利用が難しくなったということがある。PCからだと面倒臭いが一応はアクセスできるが、スマートフォンのAPPをアカウントなしの人が使うというのは多分不可能なのではないか? (潜在的であれ)送り手(アカウントを持った人)にならなければ受け手(投稿を読む人)になれない。Twitter嫌いの古寺多見氏がツィートを読む目的で(ROMとして)Twitterのアカウントを取得した次第である。