「非モテ」のメリット

最近またまた「非モテ」を巡る言説が活性化しているようではある。それらにここでいちいち言及することはできないが、村山俊之氏の「社会問題としての「非モテ」考」というエントリー*1には、以前


ただ、改めて認識したことなのだが、「非モテ」というのは客観的に〈モテていない状態〉を記述した言葉でもないし、また誰かがそのような人たちに捺したスティグマでもない。それは言うならば、〈自己スティグマ化(self-stigmatization)〉であり、自らのアイデンティティとして選び取られたものであるらしいということである。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080419/1208580191
と書いたことを補完する部分がある*2。氏は、「「非モテ」を自称すること」の「メリット」について、

おいらはそれは、実は承認欲求に基づくものなのではないかと睨んでいます。すなわち、お互いに「非モテ」を自称しあうことによって、彼らの間に共通前提を作り出し、そこに関係性の土台を構築したいという意図です。これは、本来侮蔑の対象として作られたレッテルであるはずの言葉「オタク」を敢えて自称しあうことで、特定のカルチャーについて語り合う、より潤滑な土壌を作ろうとする人々の精神性に共通します。

彼らは「モテ」と「スイーツ(笑)」 を共通の敵と認識し、敵と見なされる言質に対して苛ついてみせたり、敵意をむき出しにして見せたり、あきれかえって見せたり、反論して優越感ゲームに耽って見せたりします。そうすることで、お互いに共有するはずの精神性を確認し合い、馴れ合い、安心するのです。

もちろん、そういった馴れ合いごっこに荷担しないにも関わらず、「非モテ」を自称されるかたもいらっしゃいます。しかし、そういう方々が「非モテ」を自称する人々の文脈というか空気を読まない発言を試みると、やはり幾人かの自称「非モテ」たちの攻撃の対象となったりします。特に、「非モテだけど一応彼女が居ます」などとネット上で書こうものなら、たちまちの内に燃料となり、非モテ非承認の村八分騒ぎとなるのです。

という。上に引用した私の文章との関連で言えば、「非モテ」というのは〈自己スティグマ化〉であると同時に、〈想像の共同体〉が構成される契機となっているということである。ただ、「オタク」の「精神性」と(ここで語られている)「非モテ」の「精神性」は、概念的には区別すべきだろう。ポジティヴな共通の関心によって構成される共同性とネガティヴな共通の関心(「共通の敵」)によって構成される共同性は、やはり違う。「共通の敵」よって構成される共同性ということで、寧ろ〈熱湯浴〉の心性に近いといえるのではないか*3。また、「対象として作られたレッテル」を引き受けるという仕方での〈自己スティグマ化〉が常にネガティヴなものになるとは限らない。例えば、Punk*4セックス・ピストルズが登場するはるか数百年前からpunkという英単語は存在したが、例えば与太者をはじめとして、碌な意味は持っていなかった。