また、
これだけ恋愛恋愛とあおられると、だれにでも恋愛ってできるもの、というか、恋愛をしなくちゃ人間としてなんか欠陥があるんじゃないか、みたいな気をおこしてしまうらしいが、恋愛というか、だれかを避けようもなく、そして、決して他と取替不能なほど愛してしまう、というのは、性格とか環境とかタイミングとか、いろんなものが重なった一瞬のできごとであって、一生そういうチャンスに出会わない人だってたくさんいるだろう。「彼氏」「彼女」をなんども取り替えている人でも、実はそういう恋愛には出会わずに終わってしまうということだってあると思う。別にそれはいいことでも悪いことでもない。
大体そうなのだろうけれど、「ほかにとりかえのきかない「恋人」なんてものは、だれも求めてなかったのだ」とまでは言えるのかどうか。所謂純愛物のニーズというのはさておくとして。それは、「不特定多数からの視線」からの「承認」だけで、「ほかにとりかえのきかない」〈私〉が存立するとは考えられないからだ。「ほかにとりかえのきかない」〈私〉の「承認」の幻想ということがなければ、ナンパ師だって、騙すことは不可能なのではないか。
「非モテ」の話に戻ると、この話は恋愛にまつわるものと思うと、意味がわからなくて当然だったようだ。「こういう女は叩かれる」*2から発言小町*3の記事をざっと読んでやっとわかったよ。要するに、だれも恋愛の話なんかしてなかったわけよね。社会的な承認欲求の話だったわけだ。その場合、だいじなのは不特定多数からの視線であって、ほかにとりかえのきかない「恋人」なんてものは、だれも求めてなかったのだ。「彼氏」「彼女」っていうのは、単に「まわりから男性的(女性的)魅力があると認められている自分」を映すうぬぼれ鏡というわけだ。
話を変えれば、事実上は偶然の事柄でしかないものを、そこに単純化した因果関係を設定してしまうということが問題なのか。そうすれば、もし努力すればとか、もし金持ちだったらetc.という仮定をすることが可能になる。その仮定によって偶々成功した人は、その個別的偶然を普遍的必然として過度に一般化したり*4、偶然性を忘却して過度に自惚れたり、逆に成功しなかった人も(自分で考えるにせよ、他人から借りて来るにせよ)単純な因果性を仮構して、それに基づいて、ルサンティマンをチャージすることになる。そこに私たちの存在の本源的な偶然性、受動性の隠蔽を見るのは、やはり暴論だろうか。
「勘違い」といえば、小谷野敦氏の「勘違い」もメモしておく。既に削除された数年前のインタヴュー*5に曰く、「過激なことを言うようですが、人妻の性を解放して一妻多夫制にすればいい。昔は妊娠の問題がありましたが、今は避妊技術が発達したので、この問題はあまりないと思います。道徳的懸念さえ振り払ってしまえば「もてない男」はかなり救われる」。これって、性欲の充足と「恋愛」を混同していないか。ただ、昔西洋の貴族の御婦人や高級娼婦が主催していたという知的サロンへの憧れということなら、共感しないでもない。それから、「大学の寮制度をもっと充実させ、男女共同の寮にすれば機会が増えるでしょう。自宅から通っていると相手ができにくい」ということだが、「海陽学園」は男子校だったので残念というのは冗談ではあるが、事実認識としてどうなのかなと思う。山田昌弘氏が以前指摘していたように、「非モテ」(その当時はこんな言葉はなかったが)が問題化されるようになったのは、社会におけるジェンダーのバリアが(あくまでも)相対的に薄く・低くなってきた状況においてでしょう。今から20年前、30年前を考えれば、理系の学部の女子学生の比率、看護学校や看護学部の男子学生の比率というのは今よりもずっと低かった筈。しかし、その当時に(個人問題ではなく)社会的な問題としての「非モテ」は言説化されていたかどうか。尤も、自宅から通学or通勤している人が相対的に〈晩稲〉である傾向は(事実はともかく)そう思い込まれていた筈であり、それとの関係か、下宿している女子学生はそのことで就職活動において差別を受けていたという事実はある(現在も?)。