「ラブゾンビ」?

宇野常寛という人の文章;


解説しよう。そもそも「政治の季節」退潮後、批評が単体で求心力を持つ
ことはなかった。そこで八〇年代の「ニューアカデミズム」は代理店
ビジネスと結びつくことによって「場」を形成した。だが、そのモデル
も長くは続かなかった。

では、その後に登場した宮台真司はどうしたか? はっきり言ってしまえ
ば、読者の性愛コンプレックスに訴えたのだ。同じ偏差値なら、地頭の
悪いやつほどコミュニケーション下手で、満たされないプライドを確保
するために本を読んでいる(無論例外はあるが)現実――というのは四年
制大学におけるコミュニケーションを観察していれば誰でも気づく(そし
て当事者たちは死んでも認めたがらない)「常識」だが――を背景に、
宮台は求心力を確保するために「モテたければ俺の本を読んで修行しろ」
というメッセージを「暗に」発信することを選んだのだ。その結果、九〇
年代の宮台真司は動員に成功した。東浩紀ゼロ年代に行ったことも
基本的には同じだ。東は「君たちがモテないのは、むしろ頭がよくて繊細
な証拠なんだよ」というメッセージを「暗に」発することで、動員力
を確保したのだ。

無論、こうすることで宮台や東の見解や思想が広く共有されたことは
疑いようがない。その意味ではこの「性愛コンプレックス動員」は
「必要悪」だったのだろう。だが、その必要悪にからめとられてしまい、
読者の質を決定的に落とすことで、今、「批評」は死にかけている。今、
批評を読んでいるのは物事を「考えたい」人々ではなく、むしろ自分を
肯定するロジックが欲しくて仕方がない人々、「考えたくない」「安心
したい」人々である。(これは比喩だが)「ナンパ師かギャルゲーマー
かの不毛な二択で、性愛コンプレックス層(ラブゾンビ)を動員する
ゼロサム・ゲームが繰り広げられているだけの、事実上無内容な場が
支配的になりつつあるのだ。
http://www.sbcr.jp/bisista/mail/art.asp?newsid=3305

「ラブゾンビ」という言葉を初めて知る。知識社会学的事実の準位においては、ここに書かれていることどもは具体的に実証される必要があるだろう。また、著者という審級と読者という審級が混同されているようにも思える。何しろ、上に引用した部分の後で、「もちろん、一応の知人として、僕の知る限り宮台や東がそんなコミュニケーション観を本気で抱いて、実践している人ではないことはここに明言しておく」と言われているのだから。勿論、理論的なテクストが人生論というか自己啓発書として読まれる可能性はあるのだろう。というか、これを読んで、文筆家として売れるためには、人生論を書かなければいけないのかなとも一瞬思った。また、「批評」が「自分を肯定するロジックが欲しくて仕方がない人々、「考えたくない」「安心したい」人々」によって消費されているという宇野氏の主張だが、もしかしてそれは、「批評」或いは理論というものが表層を超えた場所にある不変の真理に迫るものだという、既に殺した筈の臆見が「ゾンビ」のように生き残っているということなのだろうか。
ところで、「ナンパ師的な暴力にも、ギャルゲーマー的なナルシシズムにも陥らず、相手と向き合って少しずつ試行錯誤を繰り返し、適切な距離を掴む。この当たり前の「第三の道」を改めて主張したい」との主張は〈恋愛論〉としては真っ当なものだと思う。

因みに、〈非モテ〉については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060411/1144754380http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061029/1162091586http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070514/1179125368http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070704/1183550060とかで言及した。