「共同世界」的に分節化された「周囲世界」(メモ)

共同存在の現象学 (岩波文庫)

共同存在の現象学 (岩波文庫)

承前*1

これから、カール・レーヴィット『共同存在の現象学』、II「共同相互存在の構造分析」。先ずは第一部「共同世界と「世界」ならびに「周囲世界」との関係」第一節」「或る者にとって共に在る人間はさしあたり共同世界としての世界において出会われる」。


共に在る人間が出会われるのは、根源的には、人格というすがたをして浮遊した、理論的考察にとっての客体としてではない。世界に対する人間の関係において、そのかぎりで「世界内部的」に、周囲世界的な方向づけにおいて存在する共同世界としてである *2 。各人はつねにどこかに存在するとはいえ、それは、「ここにいまhic et nunc」存在することが「知覚される事物」の「本質」にぞくしているからではない。「世界内存在」としての人間的な現存在はどこにも存在しないということがなく、かならずどこかに存在しているから、すなわち空間的に実存しているからである*3。(略)世界が私にとって接近可能なものであるかぎり、しかもただそのかぎりにおいてのみ、私は世界のなかで人間たちに出会う。だが、この人間たちは、「それ自体としては」世界にぞくしていない(つまりたまたま世界のうちに立ちあらわれる)なにものかとして出会われるのではない。むしろ人間たちは、世界の性格を本質的に規定するまでに「世界」にぞくしているのである。(pp.57-58)
続いて、「空間」が人間によって「生気づけられている」ことが語られる;

ほかの「街」や「異国」に移りすむとき、共同世界的に分節化された周囲世界という意味で、ひとはべつの「世界」に身を置くことになる。街や地方は本質的に、それが生気づけられているありかたによって特徴づけられている。つまり街や地方に生物がただ在るということによってではなく、住宅、街路、街や地方は、そこに住まう者、住みこむ者、住みつく者によって「生気づけられて」いるのである。住まう者によって、住居としての住宅の性格が規定される。住居は住まい、居をかまえるために現に存在するからである。居住空間があるのは、住まう人間たちがあってこそのことである。街に住みつく者が、住みこむ者としてその「街」を特徴づけ、街のすがたや街の性格を規定しているのだ。(p.58)
但し、「周囲世界」が、無人の住居とか「活気のない街」というふうに、ネガティヴに、「欠如という意味で共同世界的に特徴づけられ」ることも述べられている(p.59)。さらに、

自然は、自然との交渉(栽培、開墾など)において本来の周囲−世界となることで人間化される。この自然の人間化に対応して同時に、自然の自然性とは、人間の交渉によって手がつけられていない自然のありかたという意味になるのである。(ibid.)
これに対する補足(或いは限定として)マルクスエンゲルスドイツ・イデオロギー』から、「(前略)この人類史に先行する自然なるものは、およそ(略)フォイエルバッハが住んでいる自然ではなく、(略)最近誕生したばかりのオーストラリアの珊瑚島嶼の上ならいざしらず、今日もはやどこにも実存せず、したがってフォイエルバッハにとっても実存しない自然である」(廣松・小林ヴァージョン、p.48)。
ドイツ・イデオロギー 新編輯版 (岩波文庫)

ドイツ・イデオロギー 新編輯版 (岩波文庫)


(前略)人間の「結合」のひろがりは、そのつどの世界の結合のひろがりと正確に一致する。私にとって接近可能なこの世界は、けれどもただ、共に在る人間という意味で人間的に分節化された世界であるばかりではない。世界は同時に、私の世界として規定されているのだ。私自身を顧慮することによってのみ、共同世界は共に在る−世界という特種な性格を帯びる。共同世界的に分節化された周囲世界は、多かれすくなかれ避けがたく、だれか或る者自身に方向づけられている。ただ、私と共に在る人間が「他者たち」であるという意味においてだけのことであれ、そうである。共同世界がもっとも明示的なかたちで私の世界と関係づけられるのは、共同世界がひとりの特定の他者と、つまり《きみ》と合致し、ひとりの〈きみ〉が〈私〉にとっての全世界をそのうちに包摂してしまう場合である。その場合にのみ、フォイエルバッハにならって「世界すなわち〈きみ〉」と語ることができる。《きみ》がそのとき〈私〉にとって代表するのは、たんに共同世界のすべてではない。全世界である。とはいえこうした共同世界、あるいはそのように(ひとりの〈私〉にとっての)〈きみ〉へと集約された意義における世界は、共同世界という意味での世界から派生した意義においてさしあたり理解されなければならない。(pp.59-60)
後半の部分は多分〈恋愛論〉を書くとしたら、そのコアとなるべきものだろう。某人曰く、彼女にハイヒールで腹を踏みつけられるとき、世界が自分の身体に食い込んでくるんだよ。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091116/1258370011 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091118/1258573653 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091124/1259035863 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091125/1259117601

*2:「周囲世界的な方向づけにおいて存在する」という言い方はちょっと意味不明。

*3:ここでレーヴィットは、ハイデガー存在と時間』第24節「現存在の空間性、ならびに空間」及びp.119(岩波文庫版では上巻pp.227-229[第26節「他人の共同存在など」]の参照を求めている(p.58)。因みに、『存在と時間』第22節は「手もと存在の空間性」、第23節は「世界・内・存在の空間性」。