思考のトポス

興膳宏『中国名文選』*1。第11章で取り上げられるのは蘇軾(蘇東坡)の「赤壁の賦」。
東坡は1079年、「国政誹謗の罪を着せられて逮捕され」「黄州(湖北省黄岡県)に流罪になった」(pp.183-184)。


蘇軾はこの流謫という挫折経験にのめりこんで、その思いを感傷的に詠ずるのではなく、彼個人の不幸をより高度の次元から見直すことによって、たくましく乗り越えようと努めた。それは決して一挙に到達できた境地ではなく、平生の深い沈思の結果が、彼に現実を超越した澄明な人生哲学をもたらしたのであろう。
彼の黄州時代の最大の傑作が、ここに紹介する「赤壁の賦」である。「赤壁」は、三国の物語で有名な古戦場であり、西暦二〇八年、呉と蜀の連合軍がこの地で、数において圧倒的に勝る魏の水軍を破ったことで知られる。ただし、合戦のあった赤壁は、黄州から長江をさかのぼった南岸の嘉魚県の西(蒲圻県の西北)にあり、蘇軾が遊んだ赤壁は黄州の赤鼻磯で、実際の古戦場とは異なる。史跡を蘇軾が取り違えていたのではなく、古くから底を合戦の場だったとする民間伝承があったらしい。(略)講釈などを通じて親しまれた赤壁のイメージを、作者自身が虚実をとりまぜて楽しみながら、ここに取りこんでいると解釈してもよいのではあるまいか。(pp.184-185)
実際、「赤壁の賦」はその附近で数百年前に起きた合戦を主題とするものではない。「赤壁」は蘇東坡の思考が発せられるトポスなのである。合戦への直接的な言及があるのは、
「月明星稀、烏鵲南飛」という曹操の詩句が引用される1箇所のみなのだった(See pp.192-194)。
後半部から引用してみる;

蘇子曰、客亦知夫水與月乎。逝者如斯、而未嘗往也。盈虚者如彼、而卒莫消長也。蓋將自其變化者而觀之、則天地曾不能以一瞬。自其不變者而觀之、則物與我皆無盡也。而又何羨乎。且夫天地之閒、物各有主。苟非吾之所有、雖一毫而莫取。惟江上之清風、與山閒之明月、耳得之而爲聲、目遇之而成色。取之無禁、用之不竭。是造物者之無盡藏也、而吾與子之所共食。
著者は、

「逝く者は斯くの如し」は、『論語』子罕篇*2孔子のことば、「逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎てず」にほる。「逝」は、行ってそのまま戻らないという意味を持つ。「逝く者」にこめられた孔子の思いは、「行って帰らぬ」という悲観的な意味に解釈する説と、「常に流れて止まない」という楽観的な意味に解釈する説が古くからあるが、ここでは後者の方向で用いられている。「盈虚」は、月が満ちたり欠けたりすること。「其の変化する者自りして之を観れば」云々は、『荘子』斉物論篇の「斉物の哲学」にもとづくところが大きい。『荘子』によると、万物は絶対の次元から見れば、その価値は全て一に帰し、秋のけだものの細い毛よりも大きなものはなく、巨大な泰山もちっぽけだとする逆接がなりたつ。そこからすれば、天地が悠久で人生が短促だとする常識は、相対的な価値観にとらわれた分別に過ぎない。
「蘇子」はこのように論を展開して、時間の支配の下には無力だとする「客」の悲観論を、荘子の「斉物の哲学」、吉川幸次郎氏のいう「巨視の哲学」(『宋詩概説』*3岩波文庫)によって止揚しようとしている。(p.197)

「物各おの主有り」以下については、このころ書かれた「臨皐の風月を書す」と題する商品文に、「江山風月、本もと常主無し。閑なる者は、便ち是れ主人なり」とあって、同じ趣旨を述べている。「造物者」は、万物を創造した神。『荘子』大宗師篇*4に、「偉なるかな、造物者」とある。「無尽蔵」は、もと仏典の語で、いくら取りだしても尽きることのない蔵。「食」は、享受する意で、「適」に作るテキストもある。(p.199)
と注釈している。曰く、

流罪という不幸も、人生の流れの中では絶対的な意味を持つものではない。幸福といい不幸といっても、所詮は相対的な価値観に過ぎず、角度を変えて眺めれば、おのずと違った意味がそこから見えてくるものだ。「赤壁の賦」から読みとれるこうした楽観精神は、黄州時代に培われ、さらにその後の人生経験を通じて深められ、蘇軾の文学を通底する基調となった。なお、蘇軾はこのほかにも赤壁を題材とした「詞」(略)の名作「念奴嬌―赤壁懐古」があって、長く愛誦されている*5