「言」と「書」の間

興膳宏『中国名文選』*1から。
(中国)「古代の人々も、口頭語と文章語の間にある距離については、すでに意識していた」(p.5)。


易経』の繫辞伝に、孔子の発言として、次のようなことばがあるのはよく知られている。

子曰く、「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず。然らば則ち聖人の意は、其れ見る可からざる乎」と。
「書」は文字によって記されたことば、「言」は口頭で話されることば、「意」は心に思うことである。書かれたことばは、話されることばのいわんとするところを十分に述べつくせないし、口で話されることばは心に思うことを十分にいいつくせない。「意」と「言」と「書」の間には、それぞれ断絶がある。そうだとすれば、いにしえの聖人の「意」としての書物に記されることばでは、正確にその真実を知ることができないのか。これは一種の言語不信論であり、中国人の思考に深く根を張っている。(ibid.)
また、

中国文章史の後期には、話されたことばの語気をできるだけ生かすことを主眼に置いて文章化した禅僧や儒者の語録、民衆の話しことばをベースとした白話小説など、話しことばに忠実であろうとする作品も生まれてはいる。しかし、それらはあくまでも例外であって、正統的な文章とは認められていなかった。
近代になって、西洋文明に接し、またいち早く文明開化に成功した隣国日本の刺激を受けて、中国の人々も口語に軸足を置く新しい文体を求めるようになった。文言から漏れ落ちてしまう零細なものの中にこもる真実を過不足なくすくい上げることのできる文体、清末の詩人黄遵憲(一八四八―一九〇五)*2のことばを借りれば、「我が手もて我が口を写す」(「雑感」)文体であり、その方法を具体的に提唱したのが二十世紀始めの文学革命であった。(p.8)
この根柢的な「言語不信論」と(それとは対極にあるようにもみえる)〈正名〉論*3との関係は?