- 作者: 吉川幸次郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2006/02/16
- メディア: 文庫
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著者にとって、「宋詩」の意義として最も重要なのは、「悲哀の止揚」ということだろう。また、この「悲哀の止揚」、「人間はもはや微少な存在ではない」(p.51)という意識の一端を著者は儒家に求めている;
序章 宋詩の性質
第一節 宋の時代
第二節 宋の文学における詩の地位
第三節 宋詩の叙述性
第四節 生活への密着
第五節 連帯感
第六節 宋詩の哲学性 論理性
第七節 宋詩の人生観 悲哀の止揚
第八節 唐詩と宋詩
第九節 平静の獲得
第十節 宋詩の表現
第十一節 詩の歴史における宋詩の意義
第十二節 宋詩における自然
第一章 十世紀後半 北宋初の過渡期
第一節 西崑体 晩唐詩の模倣
第二節 その他の小詩人 林逋 寇準
第三節 王禹〓*1
第二章 十一世紀前半 北宋中期
第一節 欧陽修
第二節 梅尭臣
第三節 蘇舜欽
第四節 笵仲淹 韓〓*2 邵擁
第三章 十一世紀後半 北宋後期
第一節 王安石
第二節 蘇軾 その一
第三節 蘇軾 その二 巨視の哲学
第四節 蘇軾 その三
第五節 黄庭堅
第六節 陳師道 その他
第四章 十二世紀前半 北宋南宋初の過渡期
第一節 江西詩派
第二節 陳与義
第五章 十二世紀後半 南宋中期
第一節 陸游
第二節 笵成大
第三節 楊万里 朱熹 その他
第六章
第一節 民間の詩人たち
第二節 永嘉の四霊
第三節 江湖派
第四節 戴復古
第五節 劉克荘
第六節 三体詩 詩人玉屑 滄浪詩話
第七節 宋末の抵抗詩人
跋
宋詩年表
詩人生日忌日表
地図
【付録】拙詩四首
補訂付記(筧文生)
解説(筧文生)
また、欧陽修と梅尭臣を輩出し、宋詩的なスタイルが確立された第4代皇帝・仁宗の時代について、
こうした楽観は、宋の哲学の立場と無関係ではないだろう。私は哲学史のしろうとであるが、宋の哲学者たちの命題の一つは、古代的な楽観の恢復にあったように見うけられる。古代的な楽観とは人間の運命よりも人間の使命をより多く説く、儒家の古典のそれである。(ibid.)
という。勿論、「跋」では、
いったい、仁宗の時代は、単に詩ばかりではない。文明ぜんたいが、意識の転換を行った。すなわち古代の儒家思想を、民族の正統の倫理として再確認し、その実践を、個人の、また社会の、任務とすることを、文明の中核としたことである。まず儒家の政治哲学の実践としては、知識人による政治が希求され、実現された。政治の指導者と文明の指導者の一致であり、笵仲淹、富弼、文彦博、韓〓*3ら、知識人出身の新官僚群、いわゆる「名臣」がそのにない手であった。欧陽修もその一人である。彼等は、六朝から唐に至るまでの過去の文明を、儒学の優位が、仏教道教によって、はばみおかされた点で、堕落と見、それからの訣別を宣言した。またそれら過去の時代に盛行した美文学を、やはり堕落した無思想のものとして否定し、より思想あり、内容ある文学を、みずからの時代の文学としようとした。(p.98)
とも言われているが。
宋詩は、仏教ことに禅との関係が密切である。また原稿を読んで下さった小川環樹博士の指教によれば、道教との関係もなかなかである。二教のことに無知な私は、小川氏に指教されたものをもふくめて、生兵法を犯さなかった。(pp.284-285)
ところで、そうは言っても、或いは著者の基本的な立場を裏切ってまで、道家や仏教のことを語ってしまっているところがある。第三章第三節は、「悲哀の止揚」に関連して、蘇軾における荘子的な「斉物」論の影響が語られている。その中で曰く、
「悲哀が人生の不可避の要素、必然の部分であることを、確認し、それへの執着をおろかとすること」――これは「執着」を戒める仏教的態度そのものだろう。
悲哀が人生の不可避の要素、必然の部分であることを、確認し、それへの執着をおろかとすることである。これは蘇軾によって独創された新しい態度のように、私には思われる。儒家の理想主義は、完全な社会、したがって悲哀のない人生を、夢想しやすい。「詩経」の詩人の悲しみいきどおりは、この夢想がうらぎられたための悲しみいきどおりであり、唐の杜甫に至っても、そうであるように思える。しかし蘇軾はそうでない。おそらくはじめてそうでない。悲哀、あるいはその因となる不幸は、人生の必須の部分として、人生に遍在することを、主張する。希望と運命、個人と社会が、しばしば矛盾の関係に立つ以上、悲哀は人生の必然の部分としてあるとする洞察を、彼はもったのである。(pp.169-170)。
さて、著者は宋代において、唐詩の中では杜甫が特権的に称揚されたことに関する「宋の詩人たちの意識」について、
という。これは宋代に至って、詩を書き・読むことがベタからメタなことへと変わったということであろう。その限りにおいて、宋人は近代人なのだということになる。また、「また早く欧陽修が詩についての随筆を「詩話」の名で書いて以来、南北宋を通じて、詩に関する随筆、評論がおびただしく出現し、「詩話興りて詩亡ぶ」といわれるほどであった」(p.280)とも書かれているが、この〈論〉の対象としての詩の登場ということもこれと関係しているといえるだろう。
過去の詩人のうち、みずからの祖先となるもの、それらを表章し、発掘し、祖述継承するのが、自覚的な意識であった。そうして過去の文学では、部分にとどまり、支配的でなかったものを、自己の時代の支配的なものとしたのである。(p.73)
大碩学に楯を突くようで申し訳ないが、p.89に引かれた潘〓*4の「叙吟」という五言律詩の最後の行「人間萬事軽」で「にんげん」というルビが振られているが、「にんげん」だと猿よりも毛が3本多い動物を意味し、世俗・世間の意味で使うなら、じんかんと読むのが適当だろう。また、p.201に引かれた黄庭堅の五言律詩の最初の行「松柏生澗壑」の「柏」には「かしわ」というルビが振られている。現代中国語では「柏」は糸杉の意であり、cypressと英訳されている。宋代においてはどうだったのだろうか。