正しいことについて、そして「テロ」を巡って

承前*1

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070421/p1を拝読して、そのご真意は諒解したつもりだが、どうも私の表現の仕方があれなもので、Arisanが気分を害されていたら、私としても心苦しい。
さて、それに関連して、正統性(legitimacy)と合法性(legality)は違うだろうということを考えた。裁判官や弁護士がこの2つを同一視するというのは一種の〈職業病〉であって、仕方がないともいえるけれど、そうではない一般人まで感染することはない。佐伯剛氏の「体罰とルール」*2を読んだ。教師の「体罰」について、佐伯氏は


私は、ルールとしての体罰は反対である。しかし、現場でやむなく発生する“体罰”は肯定する。矛盾していると思われるかもしれないが、ルールとしては禁じられていても、敢えてそうせざるを得ないというところに、その行為の本当の価値があると思うのだ。

 そういうことを言うと、「ルールを破って罰せられる方の身にもなってくれ」という声が返ってくるかもしれない。しかし、そうしたリスクを背負ったうえで行うからこそ体罰も愛情の一つと主張できるわけで、体罰が許可されているという条件下で行われる体罰を愛情の一つと主張するところに、小心者の狡さを感じる。

 自分が罰せられるから、それをしない。罰せられないから、それをする。そうした条件付きの行為を、愛情と言っていいのだろうか。

と述べる。「ルールとしての体罰は反対である。しかし、現場でやむなく発生する“体罰”は肯定する」ということには賛成する。ただ、〈体罰は愛情の表現だ〉というノリで「体罰」を肯定する人が多いのを踏まえてであろうが、「愛情」というのが度々言及されるのは余計である。或いはうざい。教師の「愛情」、それは弟子の立場からは〈学恩〉と呼ぶべきだろうが、そのようなものはそもそも「後からしみじみ思うもの」(「青春時代」*3)であろう。そこで問題になるのは寧ろ適切さだろう。「現場でやむなく発生する“体罰”」というのは、例えば(いじめの現場に遭遇して)その生徒をぶん殴ってでも止めないとその生徒がさらに多くの人間に危害を加えてしまう可能性があるとかそういう場合だろう。或いは、理科の実験など、危険な薬物や器具を使う事業の場合、それ以上の危険を回避するために〈暴力〉を使わなければならないという状況は多々ありうるのだろう。ここで重要なのは、その〈暴力〉というか脱法の正統性(或いは正当性)は事後的にしか、それも公共的な議論を通過してしか、決定されないということだ。逆のことを考えてみる。「ルール」で認められているなら、何をやってもいいのかということである。或いは、「ルール」で決められたら、個々の振る舞いの善悪を考え判断する必要はもうないのかということである。勿論、クリスチャンならカリタス、仏教徒なら慈悲、亜細亜人なら仁といった〈メタ・ルール〉を参照せよという議論もありうるが、それはさて措く。「行政対象暴力」云々ということに部分的に立ち戻りつつ、何をいいたいのかということを述べると、最初からある種の振る舞いを悪とか犯罪と決め付けることによって、そうした思考とか判断を抑圧してしまうのではないかということである。それによって、「人々の公共的な空間」*4が抑圧されるということならば、「テロ」と同じ効果を持ってしまうとさえいえる。誤解を予め解いておくと、アプリオリにそうした脱法(に一見見えるもの)を〈正しいこと〉、善として想定しているのではない*5。上で、「「愛情」というのが度々言及されるのは余計である」といったのには、そういった言説が〈動機〉の正しさを以て何でも正当化するという立場*6を導き、或いはバック・アップするんじゃないかという虞を感じ取ったからだ。或いは〈止むに止まれず〉という主意主義の肯定への虞。
さて、「テロ」という言葉を巡ってなのだが、なんばさんの意見*7は被害者の側(被害者になるかもしれない側)の「恐怖」にフォーカスしている。そもそも「テロ」というのは「恐怖」という意味なので、充分に理解できる。ただ、私が疑問を呈したのは、そんなに早急に「テロ」と決め付けなくてもいいんじゃないかということだ。幸か不幸か、犯人は自爆せずに生け捕りにされたわけだから、その言い分を聞けるわけだし、「テロ」かどうかを判断するのはそれからでも遅くないんじゃないか。勿論、「公共的な空間」がダメージを受けたということは事実だ。ただ、問題なのは政治家などによる〈アフター・ケア〉なのではないかという印象も受けた。
思い出したのは孔子の話。『史記』の「孔子世家」、『論語』の「述而」(第22節)、「子罕」(第5節)。孔子は襲撃されたときに、大見得を切る。自分は超越的なる「文」を継承している。天がそれを断絶させようとは意思していないのだから、全然怖れるに足りない。大体そんな感じだ。私はこういうしゃっちょこばった孔子よりも、『荘子』の「秋水」に登場するクールでタオイストな孔子の方が勿論好きなのだが、今回、日本の政治家たちはこれくらいの大見得を切るべきだったのではないかと思う。
Analects (Wordsworth Classics)

Analects (Wordsworth Classics)

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070419/1176948737

*2:http://d.hatena.ne.jp/kazetabi/20070421/1177135828

*3:作曲と歌は森田公一だが、作詞が松本隆だったか阿久悠だったかは忘れた。

*4:http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070418/p2

*5:哲学的には、正しいことと善なることは区別しなければいけないのだろうけど、ここでのこの差異を取り敢えず無視することにする。

*6:目的−手段関係の混乱はマートンがいう意味でのアノミーではある。

*7:http://d.hatena.ne.jp/rna/20070420/p1