柳田國男、或いは「日本人」の境界

末木文美士『日本の近代思想を読みなおす2 日本』*1から。
この本の最後には、柳田國男の『海上の道』*2からの抜粋が収録されている(p.376ff.)。


柳田が最後のオリジナルな単行本として、亡くなる前年に出版したのが『海上の道』(一九六一)であった。書名はその巻頭の論文に由来するが、そこで論じられているのは、日本人の起源説である。日本人がどこから来たかという問題は、日本人としてのアイデンティティをどこに見出すかという問題につながる。帝国日本の拡張期には、威勢のよい亜壮大な起源説がもてはやされた。該博な知識を駆使しながら、日本人が太古には世界を支配していたとする木村鷹太郎、キリストの墓を「発見」した竹内文書竹内巨麿、日本ユダヤ同祖説の酒井勝軍ら、奇説が世を賑わせたが、必ずしも学問的な問題とされなかった(永山靖生『偽史冒険世界』一九九六)。
しかし、戦後になると、江上波夫騎馬民族*3が現われ、学界でも正面から議論されるようになっていた。江上は北東アジアの騎馬民族が日本を征服して大和王朝のもとになったという説を立てて、大きな話題を呼んだ。柳田の説はそれと反対の南方説である。即ち、南の方の民族が稲作の技術を携えて、沖縄列島を通って北上したというものである。(pp.310-311)
2つの問題。(1)「日本人=稲作民族という前提」。(2)「沖縄が大きくクローズアップされていること」。

柳田の日本人南方起源説に関して、二点ほど注意しておきたい。第一は、柳田は稲作ということを日本人の根本的なアイデンティティとして論じている。 日本人=稲作民族という前提である。これは、柳田の「常民」が稲作をする定住農耕民をモデルとしていることとも関係し、もともと農政官僚として出発した柳田の問題意識がそのまま持続していることを示している。『先祖の話』*4もまた、そのような「常民」の家の永続を前提としていた。その後社会の急速な変化で、今日では柳田の前提とした家の継続ももはや成り立たなくなっている。だが、柳田の提起した問題は決して色褪せるわけではない。とりわけ稲作文化をどう継承していけるかは、日本にとって大きな問題である。(pp.311-312)
「沖縄」を巡って。柳田は1921年1月から1箇月以上かけて、沖縄(沖縄本島宮古島石垣島)調査を行い、その成果は『海南小記』に結実している。『海上の道』における沖縄への関心はそのときの関心の持続でもある。なお、柳田のこの沖縄調査は、折口信夫の沖縄宗教への関心、沖縄人である伊波晋猷の沖縄研究を触発した(p.312)。

柳田は、沖縄にこそ日本人の古い文化が残っていると考え、それが折口説をも呼び出すことになり、柳田自身もそこから日本人の起源の重要な橋渡しとして沖縄を考えるようになった。そこには、沖縄と日本の一体性が前提となっている。だが、それはいささか留保を要することではないだろうか。
沖縄は、もともと一五世紀に琉球王国として統一され、一七世紀に薩摩藩の侵攻によって属国化されたが、他方で清にも朝貢していて、独立国としての体裁を保っていた。ところが、明治政府になって琉球国を廃して琉球藩とし(一八七二)、最終的に地元の反対を押し切って沖縄県として日本領土に組み入れた(一八七五)。このことは琉球処分として、後々まで沖縄の怨嗟の対象となっている。柳田・折口の沖縄論は、明治以降の沖縄と日本の一体化を前提としている。だからこそ、沖縄を含めても一国民俗学が成り立つのである。
その沖縄は、第二次世界大戦では本土防衛のためという大義名分のために住民の四分の一が犠牲となる多大な被害を蒙り、戦後はアメリカの統治下に置かれる。柳田の『海上の道』が刊行されたのは、まさしくそのような状況下であった。沖縄・日本一体を前提とした柳田の論は、政治史的に見れば、後の沖縄返還(一九七二)へ向けての布石としての意味を持つものであった。
こうした背景を考えると、沖縄に大きなウェイトを置く柳田の「一国民俗学」の構想は、きわめて危うい前提に立っていることが明らかになる。琉球・沖縄は、いわば日本にとって境界線上に位置するもので、「内かつ外」という重層性を持つ。もはやそれは「一国民俗学」の枠をはみ出してしまうのではないか。そして、それは先にバード*5の『日本奥地紀行』で取りあげた北海道のアイヌの問題とも呼応する*6。(pp.312-313)