「骨」に抗して(小池龍之介)

作田裕史「住職・小池龍之介に聞いた供養のあり方、「先祖供養にお墓は関係ない」」https://dot.asahi.com/aera/2016081200109.html


曰く、


まず申し上げたいのは「骨には何も宿っていない」ということです。人が死んだら、その骨は自然に返る、ただの物質です。墓をないがしろにしたらご先祖様がたたるんじゃないか、何かが化けて出るんじゃないかと不合理なことを信じている人は少なくありません。

 しかし、ご先祖様は、何代も後の世代に自分の骨を拝み続けてほしいと思って亡くなったのでしょうか。違いますよね。そもそも死んでしまえば、自分の骨がどう扱われようが認識できませんし、それをうれしいとかイヤだとか思う脳もありません。骨に意識は宿りませんし、骨は自分自身ではないからです。


仏教の教えでは、「我」という永続するものは実在しません。死んだら、人間ではなくても何かに生まれ変わって、生と死を繰り返し、輪廻転生すると考えます。つまり、現在の「生」が終われば、身体も骨も用済みになります。

法事や葬式にしても、本来は仏教的な儀式ではなく、単なる伝統習俗です。それが、江戸幕府が民衆を管理、統制するために檀家制度を導入したことでおかしくなった。お寺が発行する証明書を持っていないと隠れキリシタンとみなされて迫害されるので、強制的に檀家にさせられたに過ぎません。お寺は檀家からお金を集めて、法事や葬儀をすれば潤う仕組みになった。修行を積む僧は少なくなり、仏教界は精神的な指導力を失いました。檀家制度が日本仏教を骨抜きにした元凶の一つです。

 だから、檀家離れは仏教再生につながると期待します。法事や葬儀にしても、仏教の教えとは違うところで「お寺の仕事」として誤解されている*1。その思い込みを排して、お墓、骨といった物質への執着をなくせば、「終活」などしなくてよくなります。自分の体は消滅したら自然界に返るものであり、死後の骨は自分ではない。後世にお墓を継承する必然性もありません。残された人がやりたいように、任せればよいのです。

ところで、一般的な日本人にとって、「ご先祖様」とはどのように観念されているのだろうか。私もそうだけど、せいぜい親とその親、すなわち祖父母くらいまでで、それより以前の「先祖」の名前も人となりも覚えていない。自分がその生きていた時代を知っている先人のことはあまり「ご先祖様」とは言わないように思う。柳田國男が『先祖の話』で論じたような抽象名詞としての「先祖」なのだろうけど*2、私にとっては、自分にも親がいるように祖父にも親(すなわち曾祖父)がいて、曾祖父にも親がいた筈だ(以下、初代まで遡行)というふうに、間接的に推論されるにすぎない、あまりリアリティのない存在なのだった。
柳田国男全集〈13〉 (ちくま文庫)

柳田国男全集〈13〉 (ちくま文庫)

*1:全日本仏教会の見解では「宗教行為」。See 齋藤明聖「「Amazonのお坊さん便 僧侶手配サービス」について理事長談話」http://www.jbf.ne.jp/news/newsrelease/1600.html http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20151225/1451010421

*2:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110726/1311697481 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20160307/1457323811