「歴史」と「精神分析」(メモ)

承前*1

斎藤環斎藤美奈子成田龍一ニューアカ、オタク、ヤンキー」(in 斎藤美奈子成田龍一編『1980年代』、pp.126-150)


岸田秀を巡って(続き);


成田 (前略)当時私は『ものぐさ精神分析』を読み始めて、「日本近代を精神分析する」という冒頭の一編で躓いてそれ以上なかなか進めなかったのです。美奈子さんがいわれたように、今回読み直してもやっぱりつらい(笑)。精神分析が個人を対象とするだけではなく、「集団」と「歴史」を対象にできるというか、かなりラフにしてしまったという点がその躓きの石なのですが、これは岸田秀さんのオリジナリティなのでしょうか。
環 実は個人に対する精神分析を応用して、社会や時代を斬ろうという発想はフロイトの時点ですでにあったんです。「モーゼと一神教」という有名な論文がありますが、これはまさに聖書の精神分析みないなものです。それから、「トーテムとタブー」や「文化への不満」といった、すぐれた文明批評もあります。フロイトは最初からそういう可能性を秘めた手法として構想しているわけで、岸田さんはある意味それをなぞっているのです。ただし、個人の心を探るためのツールがなぜそう易々と社会に応用できるのかという点は、フロイトもあまりちゃんと説明していないんですけれども……
美奈子 要するにトンデモと考えていいんですか?
環 そうですね(笑)。なぜかというと、反証ができない。そういうもんだと言われてしまえば、「ああ、そうですか」と言うしかない。科学とちがって、精神分析の最大の欠点はこの反証可能性のなさ。それからもう一つは「事後性」。事が起きたあとでしか分析できない。科学だったら仮説を組み合わせて予測ができるわけですけれども、精神分析はあとからしか因果関係を辿れない。自然科学とはロジックがちがうのです。ただ、私はこの事後性に可能性があるという立場ですので、必ずしも致命的な欠点とは思っていないんですけれども、歴史を語る上で岸田さんは(略)ちょっと雑にやってしまった。きちんとやればそれなりに説得力がある理論が展開できたんじゃないかと今でも思っております。(pp.129-130)

成田(前略)[精神分析]がツールということは要するに治癒を目的としているわけですね。とすれば、岸田さんの歴史分析は何を治癒しようとしているのかがわかりにくいのです。しかし、あえてそこにこだわって『ものぐさ精神分析』を読むと、最後のほう(「私の原点」)で自分の出自のことが書かれている。自分はいわゆる「もらい子」で、そのために子どものときからたいへん苦労したと書かれている。とすれば、個人の問題を明らかにしつつ、その個人を取り巻く、日本という集団を併せて分析することが岸田さん自身の治癒に繋がっているのか、とも思うのですね。
環 なかなか鋭いご指摘です。岸田さんは分析家でも臨床家でもありませんでしたが、自己分析に基盤をおいて議論を展開したところはフロイトに似ています。精神分析が治癒を目的としているかどうかは実は議論があるんです。分析をするとたまたま治癒が起こるということは、フロイトの最初の症例「アンナ・O」ですでに述べられています。その人が自分の葛藤をいろいろ語っているうちになんか症状が改善しちゃいましたというわけです。これは、抑圧した体験をうまく語らしめ、意識化できれば、その人は葛藤から解放されるのではないかという仮説なんですね。これがすべての精神分析の基本にあるわけですけれども、これはすごく雑な議論ではあるんですよ。つまり、外科手術をして、お腹を開いて、あとは縫合しなくても勝手に治りますよみたいな感じ。まあ、ラカンの後には治療が目的じゃないとはっきり明言する人も出てきますし、ラカン自身も治療というのは分析の副産物みたいにして起こるというような言い方をしている箇所もあります。治癒をゴールとするのはイケてないみたいな発想が、精神分析にはどうもあるように思います。(pp.130-131)