「城南空襲」など

青島顕*1「そこが聞きたい 戦争体験の継承 ノンフィクション作家 星野博美氏」『毎日新聞』2022年11月15日


星野博美さん*2へのインタヴュー記事。


東京都品川区の戸越銀座は関東大震災の後に一斉に人が住むようになり、近所の人々の先祖の出身地はバラバラだ、歩いて行ける五反田には、小林多喜二の「党生活者」の舞台となった軍需工場があり、近くには作家の宮本百合子が描いたブラック工場で働く人のための託児所もあった。100年の歴史しかないが、あちこち散歩してみると、改めて面白いところだと感じた。町に戦争の痕跡が残されていないのが気になり、祖父の人生を描いた前作*3で書き切れなかった戦争を描きたいと考えた。
「城南空襲」(1945年5月24日)について;

東京は3月10日未明の大空襲が別格に考えられ、慰霊行事もそこに集約されている。都内の他の空襲がなかったことのように扱われていないか、とても気になる。近所で話を聞いても、城南空襲を知っている人には会わなかった。調べてみると、5月24日も爆撃が激しかった。だが、3月10日の死者が約10万人なのに対し、5月24日は旧品川、荏原両区を合わせて252人(「品川区史」など)。建物や人の疎開が進んでいた事情もあるが、その差の理由の一つは、空襲を受けた建物の消火を義務づけた「防空法」があったにもかかわらず、人々が逃げたからだ。3月10日で生き残った人たちから「すぐに逃げなければ死んでしまう」と口コミで伝わったのだろう。庶民の知恵が共有され、一人一人が「生き延びよう」と考えた。祖父も書いていたが、自分自身で判断することの大切さが伝わってくる。
武蔵小山のこと;

*4の執筆のさなか、新型コロナウイルスの流行が始まった。コロナ禍では医療従事者ら社会の機能を維持するエッセンシャルワーカーと呼ばれる人たちを持ち上げる一方、「不要不急」なものや行動は排除された。戦前の武蔵小山は生活必需品を扱う町ではなく、「繁華な商店街」を目指しており、戦争が始まると不要不急の存在とされた。追い込まれた末に商店街で開拓団*5を組織した。不要不急とは何なのか、考えるようになった。