石井光太『物乞う仏陀』

物乞う仏陀 (文春文庫)

物乞う仏陀 (文春文庫)

石井光太*1『物乞う仏陀』を読了したのは今週の初め。


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まえがき


第一章 カンボジア 生き方〜買春と殺人
第二章 ラオス 村〜不発弾と少数民族
第三章 タイ 都会〜自立と少数民族
第四章 ベトナム 見守る人々〜産婆と家族
第五章 ミャンマー 隔離〜ハンセン病と信者
第六章 スリランカ 仏陀〜業と悪霊
第七章 ネパール ヒマラヤ〜麻薬と呪術師
第八章 インド 犠牲者〜悪の町と城


あとがき――その後の物乞う仏陀
文庫版あとがき

この本は以下のようなパラグラフから始まる;

何百何千という数の汚れた人間があふれていた。
アフガニスタンの内戦に世界が背を向けていた一九九〇年代半ば、パキスタンとの国境にある難民キャンプを私はさまよっていた。
地雷で両足を吹き飛ばされた少年、全身に水疱ができた少女、顔じゅうに火傷を負った老婆、戦地からの逃亡者たちが傷をさらしたまま路上に群がっていた。彼らは外国人である私を見つけると歩み寄ってきて物乞いをはじめた。
「ワン・ルピー・プリーズ、 ワン・ルピー・プリーズ」
そうつぶやいて私のシャツの裾をつかむのである。臭く汚れた手だった。足をとめると、次から次に手がのびてくる。
私はいそぎんちゃくのように蠢く手の海の中でもがきつづけた。何も考えられなかった。ただ恐ろしいという一心で、激しくなる胸の鼓動にせかされるようにして必死にキャンプの外へ急いだ。
だが、襤褸布をつぎはぎしてつくった無数のテントが行く手を遮っていた。それらが狭い土地に密集して、右も左もわからない。とにかく先に進むのだが、いっこうに出口は見あたらない・
私は疲れ果てて立ちどまった。足の筋肉が張って棒のようだった。その時、突然地位だな手が私の臀部をつかんだ。あわてて振り払おうとして、ひじが相手のこめかみにぶつかってしまった。すわりこんでいたのは幼い少女だった。
「アイム・ソーリー」
私はそういった。幼い少女はゆっくりと顔をあげた。顔には眼球がなく、陥没した黒い穴だけが二つあった。
きっと内戦の爆風で眼を失ったのだろう。私はもう一度謝ろうとしたが咽が震えて声がでてこなかった。
その二つの空洞は何を語るわけでもなく、ただじっと私を見つめていた。(「まえがき」、pp.10-11)
また著者は

どの国にも、障害のある物乞いはいた。盲人、聾唖者、手足の欠損者、ハンセン病や象皮病をわずらった者、あらゆる種類の障害者が路上にすわりこみ手をだし慈悲を乞うていた。中国だろうと、タイだろうと、インドだろうと、イランだろうと、それは変わらなかった。(p.12)
とも書いている。これは事実である。上海に住んでいる私だって、「障害のある物乞い」の前を通らなければ近所のスーパーに買い物にも行けないということはある。中国に限らず亜細亜諸国に旅行した人、留学やビジネスで滞在している人で、「障害のある物乞い」に出会さなかった人はいない筈だと思う。しかし(私も含めて)その遭遇を公の場では語らない。まあプライヴェート(非公開)な会話のネタになるのがせいぜいか。侮蔑或いは同情或いは体制への憤慨も一緒に*2。「障害のある物乞い」との遭遇を抑圧して語らない(私を含めた)マジョリティとは反対に、著者はアフガニスタンの「顔には眼球がなく、陥没した黒い穴だけが二つあった」少女の像に取り憑かれたように、「障害のある物乞い」との出会いを求めて、亜細亜中を駆け巡ることになる。
さて、障碍者或いは乞食を描くこと。これは安易にやれば、(悪い意味での)ポルノグラフィ、グロテスクな晒し物、つまり「モンド」*3に堕ってしまう。市民的或いは左翼的或いは右翼的なイデオロギーのスパイスを振りかけても無駄である。1日の稼ぎを酒と女郎買いに費やしてしまうアンコール・ワット近くのシェムリアップの乞食の話から始まる本書は「モンド」に陥ることから免れているが、これは先ず著者がそのようなイデオロギー的スパイスから距離を置いていることによっている。また著者が文字の背後に隠れてしまうのではなく、常に前面に出て、その身体を文章の上に晒していることにもよっている*4。本書が相当に悲惨な話が満載されていながら*5、 グロテスクな晒し物でもなく、読者を惹き付け、読者に目を逸らすことをさせないのは、著者が取材先で出会った人々をたんなる「障害のある物乞い」としてではなく、障碍を条件としつつ或る〈生の様式〉を持った、そして日々の生においてその〈生の様式〉を維持・更新していく人間として描いているからであろう。
ところで、何故「障害のある物乞い」との遭遇を私たちは抑圧してしまうのか。勿論、語ってしまうことによって思いもかけない仕方で自らのダークな偏見が露呈してしまって、(例えば)〈リベラルな知識人〉といった自己イメージなり体面なりが壊れてしまうことを恐れるということもあるのだろう。それとともに、(これは認識者の一方的な責任なのだが)出会ってしまった〈生〉を或る〈様式〉に統合できずに「剥き出しの生」(Cf. ジョルジョ・アガンベン『人権の彼方に』)を一瞬垣間見てしまうからだということも言えるのではないか。なおそのような〈生〉を正視し、それとの遭遇を抑圧することのなかった作品として、星野博美『謝々!チャイニーズ』を挙げておく。
人権の彼方に―政治哲学ノート

人権の彼方に―政治哲学ノート

謝々(シエシエ)!チャイニーズ (文春文庫)

謝々(シエシエ)!チャイニーズ (文春文庫)

*1:http://www.kotaism.com/

*2:そのための理論的・イデオロギー的ソースは、右翼的なものであれ左翼的なものであれ、そこらに転がっているといえる。

*3:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110821/1313861365 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110822/1313985047

*4:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120128/1327725020

*5:特に最後の印度篇。