信号/中国/日本(メモ)

謝々(シエシエ)!チャイニーズ (文春文庫)

謝々(シエシエ)!チャイニーズ (文春文庫)

星野博美『謝々!チャイニーズ』からメモ;


中国の人は、信号を守らない。それがどんなに車がひっきりなしに行きかう道路であろうと、どんなに大荷物を持ってよろよろしていようが、自分の好きなところで道路を渡るという信念を持っている。
車も自転車も、隙あらば前の車を追い越そうとするし、絶対に道は譲らない。互いに譲りあえばどんなにか合理的だろう、と私は思うのだが、合理的とか非合理的とかいう価値観は彼らには存在しない。自分が譲ってみんなが得をすると自分だけが損をする。譲らなければ自分も他人も損をする。どうせ損するなら他人も道連れにする。とんでもない平等主義者たちだ。
まったく、我々は「譲」という字を中国から輸入しちゃはずなんですけどね。
中国で発生する交通渋滞の主な原因は、この各々の激しい自己主張の闘いにある。日本から突然来てその光景を目の当たりにすると、あまりの非合理性に腹立たしくなる。特に自分が乗り物に乗って、道路を好き勝手に横断する人々の群れに行く手をさえぎられた時には、「手を上げて横断歩道を渡りやがれ」とついついいいたくなってしまう。
彼らは「赤信号 みんなで渡れば こわくない」日本人とは違う。
「赤信号 あたりまえだろ 渡るのは」なのだ。
彼らは信号や横断歩道を「守るべきもの」とは思っていない。むしろ、どうして自分の行く手をそんなものにさえぎられねばならないのだ、と法秩序そのものを理不尽に思っているように見える。己が従うのは己の意志のみという、何かとてつもなく自由なものを感じる。彼らを見ていると、法律や規則で人間を縛ることが基本的人権の侵害に見えてしまうからおかしい。
そんな光景に慣れてしまうと、日本に戻り、車が一台も通っていない道路でさえ、信号が青に変わるのを辛抱強く待っている日本人を見ると、いやな感じがする。そんなに周りの人間と違った行動を取るのが怖いのか。そこまでして守らなければいけない秩序とは、我々にとってどんな意味があるというのか。そういいたくなる。
私がいやなのは、信号を守る人間ではなく、赤信号でも渡ってしまう人間を見つめる、その他大勢の目だ。秩序を乱して独自の行動を取る人間に浴びせられる、ちょっぴり羨望の混じった高圧的な空気。規則に従ってりゃ安全だという事なかれ主義。ところが何人か秩序を乱す者が現れると途端に気が大きくなり、手を取りあって行動を共にしようとする傲慢な無責任。
日本人は他人の無秩序をわらう前に、秩序の傘の下に安住する自分たちの無責任さを心配している場合だと思う。
「赤信号 あまえは守れ 俺は行く」
まずは一人で赤信号で横断歩道を渡る練習から始めたらどうだろう。(pp.126-127)
星野さんのこの文章は1990年代前半の華南をベースにしたものだが、2009年の上海でも歩行者の自由に道路を渡るという感覚は衰えていない。また、大阪の人は「日本人」と一括りにするなと異議を唱えるかもしれない。因みに、星野さんは東京人(戸越銀座出身)。


ところで、湯禎兆『整形日本』*1を取り敢えず読了。