清朝の遺産としての中国(メモ)

村田雄二郎辛亥革命在中国歴史上的位置」『読書』2011年8月号、pp.96-106


訳者名が示されていないので、村田氏自身の中国語の文章といえるだろう。
少し抜書き;


(前略)特別是清朝中国、構建起包括対蒙古、新疆、青海、西蔵等所謂”藩部”進行支配的複合型統治体制、這一点在統治経済、社会文化的各個領域都賦予了與此前的”中華王朝”所不同的性格。這不僅在十九世紀的”西洋衝撃”中、成為各種変革論議和自我認識的前提条件、也提供了従二十世紀直至今日、與現代中国的領土、民族問題以及大国意識直接相関的”統一中国”的”原―身体”(Thongchai Winichakul Siam Mapped, University of Hawaii Press, 1994)。(pp.97-98)
また、葛剣雄氏の『統一與分裂 中国歴史的掲示・増訂版』*1を参照して、

(前略)中国的真正的統一是在一七五九年(乾隆二十四年、通過平定准噶爾而完成対中央欧亜的征服)実現的、這到鴉片戦争爆発也僅僅持続了八十一年。所以、在中国歴史中、分裂、分治的時期是主要的、統一是非常短期的(《統一與分裂――中国歴史的掲示》[増補版]、中華書局二〇〇八年版、77―78頁)。(p.98)
と述べている。現在中国人も外国人も前提としている政治的実体としての〈中国〉というのは(それが抱える問題も含めて)清朝の遺産だということになる。
また、開放的な「中華思想」の「頂点」としての清朝について;

総之、原本”中華”就不是実体、而是規定自我與他者的存在方式的概念。它始於古代中国、在漫長的中国歴史中根拠自他的社会関係和相互認識、其思想内容和言論秩序不断変化着(渡辺秀幸《古代”中華”観念的形成》、岩波書店二〇一〇年版)。例如、雍正帝在《大義覚迷録》(一七二九)中、提出跨越中華、夷戎之別的”華夷一家”、”中外一体”的統合、清朝之所以君臨天下、不是種族之別、而是徳之有無。清朝皇帝的天下統治的正当性、也與武力、出自毫無関係、而是因為現在皇帝実施着歴史上無與倫比的仁政。雍正帝如此断言、其充満自信的態度也可以解読為、與賤民解放令、注重実力主義的人才提抜政策相得益彰、顕示出正是清朝中国到達了具有開放性的”中華思想”的頂点。
更進一歩、如上所述、呈現出空前領土拡充的乾隆期中国這一原型是現代”統一”意識的源流、拠此可以将中華世界理解為超越了以往的華夷之分的多種族、多文化的複合国家。而且、這構成了内中包含着空間上的非均質性的多元的且階層化的政治秩序、它無法帰納於同心円構造以及漢族、非漢族二元模式。如此看来、這裡所説的”中華世界”、絶非歴史的固定的実体、而応該是清朝中国――或者中央欧亜的大清帝国――這一特定歴史環境中創造出的複合型体制與秩序的称謂。(pp.100-101)
「中華」(或いはその前身としての「華夏」)という想像の共同体の構成についての歴史人類学的考察としては、王明珂『英雄祖先與弟兄民族』*2を参照のこと。また、庶民レヴェルにおける「中華思想」(笑)については、星野博美『謝々!チャイニーズ』(p.8)*3雍正帝については、取り敢えずJonathan SpenceのTreason by the Book*4宮崎市定雍正帝』、Deng玉娜、張宜『雍正王朝』をマークしておく。
謝々(シエシエ)!チャイニーズ (文春文庫)

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Treason By The Book: Traitors, Conspirators and Guardians of an Emperor

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雍正帝―中国の独裁君主 (岩波新書 青版 (29))

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村田雄二郎氏のテクストの後半は、「民族與国家」、「中国史中的”北”與”南”」という節あり。
「民族與国家」で展開されている議論では、「民族」(「国民」)を巡っては、(立憲君主制を目指した)「保皇派」の方が「革命派」よりも多民族・多文化主義的な発想をしていたことが興味深かった*5。「中国史中的”北”與”南”」については、竹内実『中国という世界』を読み直しながら別に考えたい。
中国という世界―人・風土・近代 (岩波新書)

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