「バックパッカー」(メモ)

愚か者、中国をゆく (光文社新書)

愚か者、中国をゆく (光文社新書)

星野博美『愚か者、中国をゆく』*1から少しメモ;


なぜバックパッカーは、何日も並んで安い座席をとり、ホテルはあまたあるのにドーミトリーのある安宿を目指し、なるべく速度の遅い乗り物に乗り、ホテルやレストランではなく路上の屋台で食事をしたがるのだろう?
金がないからだ、という答えは、旅行者の間では通じても、現地の人には通用しない。旅行者がどんな理屈を並べようと、生きるために絶対不可欠とはいえない旅に金と時間を費やす、これはまぎれもなく贅沢な消費活動である。それなのに彼らは必死の形相で倹約に走る。
それは、旅という非日常の中では、金がないことで冒険が買えるからだと私は思う。金をかけなければかけないほど、旅は刺激に満ちたものになる。何でも金、金、金の世知辛い世の中で、旅先では冒険が安価に、時にはタダで買えるのである。もともと何かしかの冒険がしたいと潜在的に思っている旅行者にとって、これほどお得な話はない。欲しいものが高価ならどこかで諦めるしかないが、安価になればなるほど刺激が増すため、歯止めも利かなくなる。それがバックパッカーのはまる旅の魔力だと、かつてそこにはまりかけた私は思っている。
世の中には、自分を現実より大きく見せるための一つの方法としてブランド品を身につける人がいる。バックパッカーは往々にして、パリやミラノでブランド品を買いあさる旅行者を毛嫌いし、自分はそんな価値観とは無縁であると主張したがるが、バックパッカーの心理は実は、ブランド品を求める人のそれとよく似ている。
旅という非日常の中では、日常の中で通用する「高くて有名なブランド品を身につける」感覚が、「金では買えない貴重な体験をする」に替わる価値となるからだ。(pp.56-57)
ところで、私が出会った「バックパッカー」には〈悲壮さ〉を漂わせた人が少なからずいた。それは〈苦しい〉旅をしているからということではなく、旅のために仕事を辞めたという人が多かったからだ。数か月に亙る長期休暇を取得することが難しく、学生ではない勤め人にとって、海外旅行といえば、短期のパッケージ・ツアーか(会社を辞めての)「バックパッカー」かという二者択一だということはあったのだろう。
バックパッカー」の増加は円高と関係があるだろう。しかし、円高以前の時代(1970年代)、(当時はまだ「バックパッカー」という言葉はなかった筈だが)多くの「バックパッカー」が日本国内を移動していた筈だ(Discover Japanの時代)。この時代との連続性において日本における〈旅の思想〉を論じた人がいるかどうかはわからぬ。
蔵前仁一氏(eg. 『ホテルアジアの眠れない夜』、『旅ときどき沈没』)は代表的な〈バックパッカー知識人〉だったと思うけれど、最近はどういう仕事をされているのやら。さらに、最近の「バックパッカー」事情というのもわからぬ。最近の若い衆はあまり海外に出たがらぬともいうし(折角の円高だというのに)*2
ホテルアジアの眠れない夜 (講談社文庫)

ホテルアジアの眠れない夜 (講談社文庫)

旅ときどき沈没 (講談社文庫)

旅ときどき沈没 (講談社文庫)

戦後日本の〈旅の思想〉を巡っては、(以前もマークした)山口文憲関川夏央『東京的日常』、それから前川健一『旅行記でめぐる世界』をマークしておくが、このどちらも〈国内旅行〉については言及していない。
東京的日常 (ちくま文庫)

東京的日常 (ちくま文庫)

旅行記でめぐる世界 (文春新書)

旅行記でめぐる世界 (文春新書)