「ヨーグルト」話

原田マハ*1イスタンブールのヨーグルト」『毎日新聞』2017年7月9日


曰く、


私が子供の頃、ヨーグルトというものは決まってびんに入っていた。牛乳びんに比べるとずんぐりむっくりしたびんで、スプーンをカチカチいわせて底の隅の方まで徹底的にすくって食べたものだ。けっこうしっかり固まっていて、独特の甘酸っぱい風味があったが、いまや市販のヨーグルトは紙かプラスチックのカップに入れられていて、食感もとろとろが主流になっている。風味もバナナ味とかイチゴ味とかバニラとか、バラエティーに富んでいて、食べ方もシリアルと混ぜたりフレッシュフルーツにかけたり、さまざまだ。それでもヨーグルト本人は、「どんな私でも本質的には変わらない私です」と言いたげだ。まあそうだろうけど。
日本のヨーグルトにとって、重大な転機は1970年の大阪万博ではなかったか。明治乳業の人が万博のブルガリア館でヨーグルトを試食して、感激して、それを日本で再現しようと試み始める。「とろとろ」の食感はやはりブルガリア・ヨーグルト以降。また、原田さんは「風味」の「バラエティー」を強調しているけれど、プレーン・ヨーグルトというコンセプトもブルガリア・ヨーグルト以降の話だろう。
さて、1980年代末(天安門事件直後)に中国(の地方都市)に滞在していたのだが、街ではヨーグルトは売っていたけれど、牛乳は売っていなかった。このことに驚いたのは私だけではなかったようだ。星野博美さんは『愚か者、中国をゆく』*2に書いている。1987年のこと。

私は仔牛かと思うほど、牛乳が好きで、体をナイフで切ったら血液のかわりに牛乳が流れ出すのではないかと思うほどなのだが、中国旅行で最も辛いことの一つが牛乳にありつけないことだった。
高度経済成長期だった私の幼少期、日本ではすでに学校給食や家庭で牛乳が提供され、「子供は牛乳を飲め」と積極的に喧伝された時代だった。牛乳をよく飲む子供は親からもほめられ、牛乳を嫌う子は「大きくなれないぞ」と脅されるような時代だったのだ。それにまんまと引っかかってどんどん大きくなってしまった。私の人生は常に牛乳と共にあった。
中国で新しい街に着くと、私はまず食料品店に行き、牛乳を探した。しかしどことなく中国風の粘りけのあるパンやビスケットやあまり味の濃くない油っぽいチョコレートなどは売っていても、牛乳は置いていない。
「なんで牛乳がないんだ! こんなに重要な飲み物なのに!」
市場にたどり着き、ようやく牛乳瓶が置かれた店を見つける。しかしそこに置かれれいるのは「酸奶*3」(ヨーグルトよりもさらさらしていて、日本でいうところのヨーグルトドリンクに近い、甘い乳酸飲料)であり、牛乳ではない。同じ牛乳出身の飲み物からむさぼるように飲みはするが、それでも解せない。
「ヨーグルトがあるのに、なぜ牛乳がないのか? 普通、牛乳があってヨーグルトがあるのであって、ヨーグルトがあって牛乳がないなんておかしいだろう。牛乳からヨーグルトを作ることはできるが、ヨーグルトから牛乳は作れない。卵と鶏はどちらが先なのか諸説あるけれど、牛乳とヨーグルトでは、絶対に牛乳ありきなのだ。つまりヨーグルトがある以上、ここに牛乳は存在するということだ。だったらなぜ牛乳を売らないのか。牛乳を出せ!」
もちろんそんな心情を食料品店の服務員に説明する力量はない。「牛乳はあるや否や?」「ない」。それだけで会話は終わった。どの街に行っても同じことの繰り返し。生まれてこのかた、これほど長い期間牛乳断ちをしたことはなく、極めて深刻な牛乳欠乏症に陥っていた。(pp.244-248)
星野さんは吐魯番のバザールで「牛乳」を見つけた(p.248)。

なぜ中国にはヨーグルトがあって牛乳はないのか。他の土地にはなかった牛乳が、なぜ吐魯番にはあるのか。そしてなぜ牛乳がやかんに入っているのか。
(略)つまり牛乳はすぐに腐るからだった。
ヨーグルトは腐った牛乳みたいなものだから、半日店先に並べて多少発酵が進んだとしても品質が劇的に変化することはない。
しかし牛乳はそうはいかない。吐魯番で、やかんでその場飲みに限られるとはいえ、牛乳が提供されているのは、それだけ牧場が近いということ、つまり近くに牛や山羊がいるということなのだ。
(略)
東京で暮らす幼い私が毎日新鮮な牛乳を飲めたのは、生産や流通が確立され、一般家庭にまで冷蔵庫という文明の力が行き届いた結果なのであり、極めて幸せな状況なのだった。そしてそれは世界全般では当たり前ではないということだった。だいたい牛乳が好きだと宣言することは、牛乳を選択できる状況を前提としている。飲む機会がなければ、好きになることすらできない。まったく贅沢な話なのだ。(pp.249-250)
愚か者、中国をゆく (光文社新書)

愚か者、中国をゆく (光文社新書)

数年前に明治のブルガリア・ヨーグルトの中国現地生産が開始されたことは、中国のヨーグルト史においてそれなりに大きな転機だったとは思う。