「政治的利用」など

池田知久*1秦漢帝国による天下統一」(in 溝口雄三、池田知久、小島毅『中国思想史』、pp.1-84)


儒家」にとって、「礼」は内在的なものではなかった。しかし、「宗教的な「礼」については、彼らの関心事が道徳と政治にあったことから、新たに道徳的・政治的な意味を賦与してこれを肯定した」。儒家、特に荀子*2は「もともと宗教的な儀礼であった礼を、(a)家族間の団結を強化し、親疎尊卑を差等づける家族道徳の建設と、(b)国家・社会における、人々の貴賤上下を区別する階級秩序の確立のために、古来の内容を改めながら再構築したのである」(p.7)。「戦国後期の儒家無神論でありながら同時に呪術・宗教をも肯定するという矛盾する態度をとった」(pp.7-8)。それを激しく批判したのは墨家*3である。


儒家などが主教批判を行なったのは民間にそれが根強く信仰されていたためである。しかし知識人がいかに批判しようと、その基盤たる民衆には鬼神信仰が脈々と生きていた。そこで天下統一による戦乱・分裂の収束を主な課題とした諸子百家は、民衆のもつこの宗教的エネルギーを計算に入れないわけにはいかなかった。こうした問題関心から宗教の復権に先鞭をつけたのは、構成メンバーに下層の民衆を多数かかえる墨家である。前三世紀の戦国競争の激化の時代に入ると、墨家は明鬼論と天志論を著わしてその唱える諸思想、とくに兼愛(博愛)論の根拠づけに鬼神・天を置くにいたる。こうして墨家が思想界の一隅で起こした宗教のUターンの波は、他学派にも及んでいった。儒家では荀子が宗教の政治的利用の主張を打ちだしたのは、こうした情況下においてである。
明鬼論とは、鬼神はこの世に実在し、人々の行なう善悪を知り、行なった善悪に応じて人々に賞罰を下す。また全とは兼愛論の実行のことで、だから人々は兼愛論を行なって鬼神の賞を受け罰を避けるべきだ、と訴える理論である。こうして墨家は古くからの鬼神信仰を復権させたが、その行きつく先は鬼神よりもいっそう超越的な人格的主宰神、天の復権であった。そのために書かれたのが天志論である。天志論は、ただ天子だけを説得の相手として、天意(天の意志)が兼愛論の実現にあることを知り、天の罰を避けるように努めなければならない、と主張する。こうして、天子にその賞罰で兼愛論を実行させる主宰神の天が、新たな思想課題として登場したのである。(p.8)