平壌の論語

5月末の『朝日』の記事;


最古級の論語北朝鮮から 古代墓から出土の竹簡に記述(1/2ページ)

2010年5月29日11時17分


北朝鮮平壌の古代の墓から出土した竹簡に論語が記されていることが、韓国での研究によって明らかになった。中国で発見され最古とされる論語と、ほぼ同じ時期のものだ。漢字や論語がどのように中国の周辺世界に広がったのかを示すものとして注目される。

 墓は1990年代初頭に、建設工事によって発見された。中国の前漢朝鮮半島に置いた植民地・楽浪郡の役人の墓であり、副葬されていた戸籍の木簡から、紀元前45年ごろの埋葬と推定されている。

 この墓や出土品の報告書は出ていないが、北朝鮮を訪問した日本人が数年前に竹簡の写真を持ち帰った。その写真が韓国に渡り、楽浪史研究者の尹龍九さんと成均館大の金慶浩教授が中心となり、解読を進めた。

 写真には120枚ほどの竹簡が確認された。デジタル画像処理技術を活用し、文字を確認した。その結果、33枚には論語の「先進篇(へん)」が、11枚には「顔淵篇」が記されていることが分かった。

 これまでに見つかった論語では、中国河北省の墓から出土した竹簡が前55年ごろのもので最古とされてきた。それと10年ほどしか違わない。

 楽浪郡は、前漢武帝が前108年に設置した。東京大の平勢隆郎教授(中国古代史)によると、それまでの法家や墨家を重視する政策を転換し、儒家を起用したのも同じ武帝だった。儒教の教典を教える「五経博士」の制度が設けられ、地域により多様だった論語などの経典も共通化された。論語は役人の基礎教養とされたという。

 竹簡は横に糸を通し、たばねて使った。書物を意味する漢字の「冊」のもとになったことで知られる。今回の竹簡にも、糸でとめるための切れ込みが3カ所見える。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201005280277.html

早稲田大の李成市教授(朝鮮古代史)は、その切れ込みが摩耗していることに注目する。「すり切れるまで一生懸命に読んで勉強したのでしょうね。その結果として役人になることができた。だから竹簡が、墓に副葬されたのでしょう」

 平勢さんによると、漢字も役人用語として統一されたという。その漢字が植民地経営のために、朝鮮半島にまで広がっていたことをこの竹簡は示している。日本はまだ弥生時代で、「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす」と漢書地理志が記したころに当たる。

 日本で確認されている墨書きの文字資料としては、7世紀前半、飛鳥時代の木簡が最も古いとされるが、そこでも文字の練習に論語を書いたものが見つかっている。

 漢字を覚えて論語を学ぶと立身できる――中国で始まったそんな仕組みが、東アジア世界に広く漢字を普及させた原動力の一つだったのかもしれない。(渡辺延志)
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201005280277_01.html

「この墓や出土品の報告書は出ていないが、北朝鮮を訪問した日本人が数年前に竹簡の写真を持ち帰った。その写真が韓国に渡り、楽浪史研究者の尹龍九さんと成均館大の金慶浩教授が中心となり、解読を進めた」という部分が現在の北朝鮮を巡る東亜細亜情勢を象徴しているような感じがする。遺跡の正確なロケーションやその「竹簡」が何処に保管されているかもわからないわけだ。それから、『朝日』は発表された(される)学会やジャーナルにも言及すべきだろう。藤村新一による旧石器捏造に代表される考古学の腐敗の背景のひとつには、調査報告書や論文掲載以前に発掘情報やその解釈がメディアにリークされ、それがセンセーショナルに報じられるということがあった筈だ。
ところで、平勢隆郎氏のコメントで「それまでの法家や墨家を重視する政策を転換し、儒家を起用したのも同じ武帝だった」とあるが*1、「墨家」ではなくて道家なのではないか。また、「平勢さんによると、漢字も役人用語として統一されたという」。漢字の統一というのは既に秦の始皇帝が小篆の制度化という仕方で行っているのであって、漢代について言えば隷書の制度化ということ?

*1:これは間接話法なので、文責は記事を書いた渡辺延志にあるといえるだろう。