太田錦城から

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110715/1310699482に対して、


osaan 2011/07/15 16:05 『民の仁に興起して興って行ふ処は、謀反叛逆して国都を横領して、始て長人安民の行を成就すべし』
太田錦城の荻生徂徠批判です。
徂徠の「仁」が民に広まるとまた下克上の世になる、とのこと。
仁にもいろいろあるような。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110715/1310699482#c1310713536
先ず、太田錦城とは;

江戸時代後期の儒学者で、名は元貞、字は公幹、錦城と号した。明和2年(1765)加賀国大聖寺に生まれた。皆川淇園、山本北山に折衷派の学を学ぶが満足せず、漢代以降の中国の諸説から伊藤仁斎荻生徂徠の説にいたるまで研究し、幕府の医官、多紀桂山に認められて、折衷学派を大成した。晩年、加賀金沢藩前田家に出仕した。「大学原解」「中庸原解」「論語大疏」「周易比例考」「尚書精義」その他多くの著書がある。文政8年(1825)61歳で没した。水戸尊皇攘夷の論客、藤田東湖は錦城を師と仰いだ。
http://www.maroon.dti.ne.jp/~satton/meisyo/oota-kinjyou.html
荻生徂徠が「仁」の思想家として批判されているわけですね。或る意味で意外。許紀霖氏の梁漱溟論「最後一個儒家」(『大時代中的知識人』*1、pp.60-69)の中で、儒家の所謂「内聖外王」が論じられている(pp.61-62)。「内聖」は内面性や道徳、「外王」は客観的な社会制度と言い換えてもいいだろう。儒家において、その開祖・孔子は「内聖」・「外王」をともに兼ね備えていた理想的人格とされる。しかしながら、その後の儒家思想の展開においては、「内聖」と「外王」のどちらかに重心が置かれることになる。先秦時代において前者を代表するのは孟子、後者を代表するのは荀子ということになる。また、漢儒は「荀子的脈略」を「継承」し、儒学の「政治的効用」を「突出」させた。それに対して、宋儒は孟子復権であり、儒学の内面化、道徳化であった*2。なお許氏によれば、儒家の「向内的発展」を促進した契機は王安石の「新政」の挫折である。さて、宋儒(特に朱子学)を批判した荻生徂徠荀子を再評価し、「仁政」というような主観的なものよりも客観的制度を重視したのは自然だろう*3。実際(例によって出典は忘却したが)徂徠に対する批判の中には〈荀子派〉だ! というものもあった筈。意外と言ったのはそういう意味です。
荀子 上 (岩波文庫 青 208-1)

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荀子 下 (岩波文庫 青 208-2)

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儒家の「仁」を巡って、道徳哲学の準位においては、やはりフランソワ・ジュリアンの『道徳を基礎づける』*4が参照されるべきなのだろう。この場合重要なのは、道徳を基礎づけるものとしての「仁」は(漢方医学で感覚麻痺を「不仁」というように)あくまでも感覚の水準にあるということだろう*5。また、ここで石川忠司孔子の哲学』*6もマークしておく。ただ、これと「仁政」というような政治哲学の準位とは区別しなければならない。「仁政」批判においては、やはりハンナ・アレントが『革命について』で展開しているcompassionとpityについての議論*7が参照される必要があるということくらいしか今は言えない。
道徳を基礎づける―孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ (講談社現代新書)

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孔子の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

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On Revolution (Classic, 20th-Century, Penguin)

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