Return of Black

山田詠美*1「若き小説家の悩み」『毎日新聞』2022年1月23日


山田詠美のデビュー作『ベッドタイムアイズ』は激しいバッシングに晒された。


私の場合、賛否両論の「否」もかなりの数で、しかもそれが、小説としての出来や質に言及したものではなく、モラルの是非を問うていたのだった。
何のモラルかって? 日本の女の貞操観念に関するモラルのことだ。大和撫子という言葉を御存知ですか、という文言の入った手紙(と、いうか、ほとんど脅迫状)をもらったこともある。
「バブル」初期の時代に、「貞操観念」を押し付けたがるのか? 小説において「外国人の男が恋の相手だからなんだな」。

しかし、私がデビューする七年も前に、森瑤子さんが、白人男性と日本人の人妻との恋を美しい洗練された筆致で描いた「情事」を世に出している。けれど、その時、私に対するのと同じ類の罵詈雑言は欠片もなかったと記憶している。
恋の相手を黒人にしたからなんだな、と私は思い付く。いや、思い付く以前に、人種偏見によるののしり言葉の羅列を見しらぬ人々からの手紙で見せられて、ある種の日本人の心ない価値基準を思い知らされていたのである。
二〇一三年に起こったBLM(ブラック・ライヴス・マター=黒人の命も大切)の運動*2は、ジョージ・フロイドさんが警官に拘束された際に死亡した事件をきっかけに全米に広がり、デモや暴動へと広まった。
日本でも、抗議のデモ行進が行われ、私は、その様子をテレビの画面で観た。
ここまで来たんだなあ、と感慨深かった、と同時に、こうも感じたのである。この中に、人種差別の切実さを肌で感じたことのある人って何人ぐらいいるの? と。そして、尋ねてみたい気もした。
あなたたちの親、そして、もっと上の祖父祖母の世代の人たちは、あなたたちが黒人の配偶者を持ったとしたら、素直に祝福してくれる? と。
人種偏見から解放されているとは、自分の子たちが異人種と愛し合った時に素直に幸せを願ってやれる、そんな心を持てるということだと私は思う。それは、黒人であろうが、他の人種であろうが。
いずれにせよ、「BLACK」という呼称が戻って来て良かったと思っている。一九六二年、「ナチュラリー’62」と銘打たれたファッションショーで「ブラック・イズ・ビューティフル」というスローガンは誕生した。しかし、いつのまにか肌の色を強調するのは差別的だということになり「アフリカ系アメリカ人」がPC(ポリティカル・コレクトネス=政治的に正しい判断)を考慮するうえで相応しい呼称ということになったのだ。おれ、アフリカ人じゃねえし! とぶつくさ言っていた前夫の友人は多かったが。
肌の色自体は美の基準にはならない、と私は思う。けれども、それが自分の愛する人のものであるなら、この世にひとつの美しい色になる。そして、その大切な人の棲む世界もかけがえのない色を持っている、と知るだろう。
私の魅せられた世界の多くには「BLACK」という言葉が付いていた。ブラック・ミュージック、ブラック・カルチャー、そして、黒人文学
また、

私は、書かれたり言われたりすることに、いちいち腹を立てていたが、反論する気もなく、げんなりしたのは、その小説について回ったこの言葉である。
〈大胆な性描写〉
男性読者を多く抱える雑誌は、皆、この言い回しを使うので呆れた。これを欠いている編集者たちって、ヘンリー・ミラーとか読んだことがないんだろうか、と真底、不思議に思った。
私が女だからなんだ、とも感じて悔しくてならなかった。村上龍だって、池田満寿夫だって、〈大胆な性描写〉と評されたものだが、それは、斬新であることの同義で、誉め言葉だった。恥知らずの新人物書きの登場に好奇の目を向けされるために使われた訳ではない。