殺されて100年

伊藤智水「原敬暗殺100年後の分配論」『毎日新聞』2021年11月6日


今年は原敬*1が殺されてちょうど100年目。
実は、生前、首相在職中、原敬は全く人気がなかったという。


100年前の11月4日、東京駅で原敬首相が暗殺された。犯人は18歳の青年で、背後関係が疑われるも、動機はよく分からない。当時、首相になって3年余りにたっていた原は、驚くほど人気がなく、犯人は職場で上司の原批判を聞いていた。

原には、薩長が国家をろう断する藩閥政治を、国民に基盤を置く政党政治へ転換させる理想があった。原政権の誕生が、憲政擁護運動から続く大正デモクラシーの一つの到達点と歓迎されたのも確かだ。
ところが原は、普通選挙法に反対し、高揚する社会運動を弾圧、鉄道国有化を強力に進めて、「我田引鉄」と批判された。情実人事は当たり前、藩閥政治のドンだった山形有朋*2に近づいて信頼を勝ち得、小選挙区制を導入して自分の党(立憲政友会)を選挙で大勝させた。
第一次世界大戦の戦後恐慌が吹き荒れ、植民地・朝鮮で3・1独立運動が全土に広がる不穏な世相である。「政治は力である」と語る原に対し「独裁的」「ずる賢い」といった悪評が高まった。ついには議会で反対党から「西にレーニン、東に原敬」と弾劾演説されたほどだ。
原敬の評価が高まるのは戦後のこと。

原内閣は「4大政綱」という政策目標を掲げている。
①教育の充実。普通選挙に時期尚早と反対したのは、議会制民主主義を行うには国民の教養向上が不可欠だからだ。そのため、旧制高校や専門学校を作り、早稲田や慶応など私立専門学校を大学に昇格させた。
交通機関・通信網の整備
③産業及び通商貿易の振興。戦後、列強間の激烈な経済競争を渡り合うための国家改造計画である。
④国防の充実。ただし、単なる軍拡一辺倒とは違い、ワシントン会議での海軍軍縮、シベリア撤兵に向けた環境整備を推進した。
さて、

原には「利権政治の土壌を作った」との否定的評価がある。新時代の政治基盤となる大衆の要求を満たすには、多少の必要悪に目をつぶって果実を分配した側面もあるだろう。ただし、その土台には大きく確かなデザインがあった。もっとも同時代の政治家と大衆が、どこまでそれを理解したかはおぼつかない。
原を尊敬してやまない岩手県出身の小沢一郎氏が衆院選小選挙区で敗れた*3。原政治の分配政策は戦後、田中角栄政治に引き継がれたとの論もある*4。最後の弟子だった小沢氏の敗北(比例復活)が節目の年に重なったのは因縁めくが、原政治の衣鉢を継いだ国家的業績は、小選挙区制導入と国連平和維持活動(PKO)協力法くらいで終わりらしい。
ところで、これって「国家的業績」なのか? 小沢一郎黒歴史ではないの?

原敬を巡っては、川田稔『原敬と山形有朋』をマークしておく。最近出たらしい原敬伝は未読。

IBC岩手放送曰く、

没後100年 大慈寺原敬忌追悼会/岩手・盛岡市
11/4(木) 15:53配信


IBC岩手放送

 盛岡市出身の元総理大臣・原敬が亡くなってから4日で100年です。市内の寺で遺族らが参列し追悼法要が営まれました。

 追悼法要は、原敬の墓がある盛岡市大慈寺で営まれ、ひ孫の岩谷千寿子さんや谷藤裕明盛岡市長などおよそ140人が参列しました。盛岡市出身の原敬は、第19代内閣総理大臣に就任し本格的な政党内閣をつくり民主政治の礎を築きました。「平民宰相」と呼ばれ親しまれましたが、1921年11月4日、東京駅で凶刃に倒れました。参列者は法要のあと原敬の墓前に手を合わせ、郷土の偉人に思いをはせました。去年、新型コロナの影響で開催が見送られた「原敬100回忌記念の集い」は6日に開かれます。
https://news.yahoo.co.jp/articles/442e69a01d007320d6d1a54fbe13a81896c42ea9

テレビ岩手曰く、

岩手県盛岡市で「平民宰相」原敬100回忌記念の集い
11/6(土) 17:42配信


テレビ岩手ニュース

新型コロナの影響で1年延期されていた岩手県盛岡出身の平民宰相・原敬の100回忌「記念の集い」が6日盛岡市で開かれた。
集いでは岸田総理から寄せられた「先生の思いや業績を大事にしこれからの政治に当たってまいります」というあいさつが読み上げられた。
また、先人教育の一環で原敬について学んでいる
盛岡市立向中野小学校の6年生126人が、「平民宰相」と親しまれた生涯を表現した劇を熱演し、訪れたおよそ500人から大きな拍手が送られた。
このほか、地元の小学校2校による舞台発表や記念講演も行われた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/23812d4991290317e294df1230c6a8ba13d58beb