贖罪信仰とその批判(メモ)

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101011/1286813326に対して、


waferwader 歴史, 共同体, 情報操作 坂本龍馬は、日本のキリスト神話だと思っている。ネイション統合のためのシンボル。『竜馬がゆく』が、マルコ福音書。イエスは生きておられては困る存在なのである。 2010/10/13
http://b.hatena.ne.jp/waferwader/20101013#bookmark-25607403
私は寧ろ(故櫻井進先生が述べたように)その死によって近代日本の国民統合を基礎づけたのは西南戦争西郷隆盛だったのではないかと思うのだが(『江戸のノイズ』)*1。勿論、坂本龍馬が(対内的にも対外的にも)安全な存在であることは間違いない。伊藤博文山県有朋を持ち上げたら、どっかからクレームが来るわけで。
江戸のノイズ―監獄都市の光と闇 (NHKブックス)

江戸のノイズ―監獄都市の光と闇 (NHKブックス)

さて、大貫隆「イエスの絶叫をめぐって」(『図書』740、pp.2-5)という文章を読む。「イエスの絶叫」とは十字架上でのあの「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫び。
その意味について、

多数意見はキリスト教会の伝統的・規範的な「贖罪信仰」の道を行く。贖罪信仰で言う「罪」は、原始キリスト教の成立当初は、旧約聖書に記されたモーセ律法に対する違反を意味した。この意味の「罪」は、本来それを犯した人間が償うべきところである。しかし、イエスがその身代わりの贖罪の犠牲(供犠)となって血を流してくれたことによって贖われた。そう贖罪信仰は考えるのである(ロマ三25、一コリ一五3)。やがてキリスト教ユダヤ教から自立し、モーセ律法の拘束力から脱してゆくにつれて、「罪」はモーセ律法に代わる「キリストの律法」への違反を意味するようになった(一ヨハ一7、二1-3他)。現代のキリスト教でも、道徳主義に傾く教派の場合には、「罪」をこの意味で定義し直した上での贖罪信仰が優勢である。いずれにせよ、伝統的・規範的な「贖罪信仰」では、イエスが十字架上で発する絶叫は絶望の叫びのようでありながら、結局のところそうではなく、イエスは神への信頼のうちに、自らをその胸の中に投じたのだと解されるのである。(pp.2-3)
ユルゲン・モルトマン『十字架につけられた神』における「贖罪信仰」批判。大貫先生の要約によると、

もちろん、キリスト教はイエスの復活を信じる。しかし、それは他でもない「十字架につけられた神」の復活として、今現に苦難を負って生きている者たちに、それぞれの「十字架」(絶望)を超えて、きたるべきいのちを約束する出来事に他ならない。イエスの十字架こそが彼の復活をわれわれの終末論的な希望の先取りとするのであって、逆に彼の復活が彼の十字架を贖罪の出来事にするのではない。伝統的な贖罪信仰からはイエスの復活の内的必然性を説明することができない。そもそも犠牲の供え物の復活などということは、語りえないからである(邦訳二四九頁)。(p.4)
また、ルネ・ジラールによる批判;

ジラールの『暴力と聖なるもの』(原著一九七二年、邦訳・法政大学出版局、一九八二年)によれば、供犠とはいけにえによって共同体内の内的緊張、怨恨、敵対関係といった相互間の攻撃傾向を吸収する集団的転移作用のことである。さらに、『世の初めから隠されていること』(原著一九七八年、邦訳・法政大学出版局、一九八四年)によれば、新約聖書ヘブライ人の手紙以降のキリスト教は、父なる神がそのような供犠として、自分に一番親しい子なる神の血を求める「供犠的キリスト教」であり、その特徴は人間の暴力ではなく神の暴力である。イエスの受難を贖罪のための供犠とみなしてきたこと、それこそが歴史的にみたキリスト教の迫害者的性格のものであり続けてきた原因だとジラールは言う。ニーチェのような反キリスト教論者もそれがキリスト教の本質だと考えて、「神の死」を宣言した。ジラールによれば、そのような供犠を求める神は事実「死んでしまうことが必要」である。ただし、その神は福音書のイエスが告知した神ではない。彼の十字架上の死も、あらゆる種類の供犠に逆らった完全に非供犠的な死である。それを解明し、挫折と見えたイエスの刑死の中に隠された神の勝利を認めたのは、パウロ一人だった。こうして、イエスパウロにおいては、「神の暴力」、すなわち供犠の要求が終結している。ところが、そのイエスパウロはやがてヘブライ人の手紙を筆頭とする「供犠的キリスト教」によって覆い隠されてしまった。(ibid.)
さらに、ポール・リクール(『死まで生き生きと』)も「供犠理論」を批判し、「供犠の伝統全体を、贈与から考え直す必要」を説き、「命の贈与の神学を提唱」する(pp.4-5)。
大貫先生の近著『イエスという経験』と『聖書の読み方』は読んでいないのだった。
唐突かも知れないが、アンソニー・バージェス*2『アバ、アバ』*3をマークしておく。
アバ、アバ (1980年) (サンリオSF文庫)

アバ、アバ (1980年) (サンリオSF文庫)