陰謀理論/『刀狩り』

 Polly Toynbee
"A growing state of mind that needs a firm rebuttal"

は、「陰謀理論(conspiracy theory)」について、


Conspiracies are profoundly satisfying. They solve every problem, explain everything difficult and give form and shape to things that are otherwise untidily complicated. They provide the easy answer. Why did something bad happen? Because bad people conspired against the good who would otherwise have conquered. Usually, the theory reverses an incontrovertible but (to the conspiracy theorist) inconvenient fact.
と先ず述べる。そして、

Healthy scepticism easily tips into the conspiracy mindset, where dark motives lie behind everything. It is a worldview that, at its extreme, lets the malevolent feed the gullible such monstrosities as Holocaust denial. If no fact, history or official record can be trusted, then anything might be true and the world ceases to make sense or to be governable by common consent.
 Toynbeeさんにとって、「陰謀理論」とは合理的なものとして有意味な世界の存立に対する脅威であることになる。だから、「陰謀理論」は小さなうちに芽を摘まなければならない。"It is a growing state of mind that, once it takes hold, spreads easily from small things to big beliefs. It needs a firm rebuttal, even when it invades relatively unimportant-seeming things - such as was Shakespeare really Shakespeare?"というわけである。というわけで、以下はシェイクスピアについての「陰謀理論」。
 やり玉にあげられているのは、Clare Asquith子爵夫人のShadowplay: the Hidden Beliefs and Coded Politics of William Shakespeareという本*1。著者は元駐モスクワ英国大使の奥方であるという。その主張は、シェイクスピアの作品は当時イングランドで弾圧されていたカトリシズムの密かなプロパガンダであるというもの*2−−"If the Da Vinci Code strikes at Catholicism, here the Catholics strike back by laying claim to the greatest writer of them all."それから、昔からよくあるシェイクスピア別人説については、

With wit and a heavy boot, Brian Vickers in the Times Literary Supplementary demolishes a clutch of the latest Bacon/Marlowe/Earl of Oxford-wrote-Shakespeare books, with devastating effect. So much is known and documented, he says, that it would have taken a cover-up on a huge scale to disguise his true authorship at the time. Marlowe and Oxford died so long before Shakespeare that they would have to have hidden the plays away for years. Bacon was an immensely busy administrator and prolific writer with no motive to hide his genius under a jobbing actor's cloak. But none of that deters those who inhabit a world where nothing is what it seems.
ということである*3。このような言説を支えるパッションは"People yearn to know more than can be known and to explain the inexplicable, searching for a man only knowable through his works."というものであり、それは「聖なるテクストの一語一句」から〈より以上のもの〉を読み取ろうとする「神学者」のパッションと同じなのだという。「神学者」の性格付けについては同意しかねるところもあるし、「陰謀理論」へのパッションについては別の意見もあるのだが、ともかく彼女の結論は、

Scholars conclude that no rebuttal about Shakespeare will put a stop to it. Fascination will forever breed wild invention. Most comes from the frame of mind that undermines reason and ignores the value of fact - dangerous, even in the gentle art of Shakespeare interpretation.
ということである。
 さて、私見では、「陰謀理論」の前提にあるのは、個人にせよ集合体にせよ、〈主体〉の力能への過信である。そもそも自らの〈主体性〉に自信のある人は「陰謀理論」にはあまりはまらないだろうけど、自らにはそのような力能はなくても、どこかにオムニポテントな個人的・集合的〈主体〉がいる筈だという願望的確信が抱かれる。特に、自らの〈主体性〉が危機的状況にあると感じている人にとって、「陰謀理論」は自らの剥奪された(と妄想されている)オムニポテントな〈主体性〉が実在若しくは架空の〈主体〉*4に投影されているわけである。「陰謀理論」というのは、〈主体性〉の崇拝であり、その限りでは〈ヒューマニスティック〉であるといえよう。或いは浪漫主義的ということだろうか。そういえば、浪漫主義の時代というのは、〈天才〉という個人的な〈主体〉とともに例えばネーションというような集合的な〈主体〉が構築された時代でもある。「陰謀理論」のもう一つの機能というのは、主観的というか想像的な〈勝利〉をもたらすということである。「陰謀理論」を唱える人・信じる人にとって、(所謂エリートも含めて)世人はオムニポテントな「陰謀」の〈主体〉によって欺かれており、自分はといえば、「陰謀」によって世の中を好き勝手に操作する力能はないけれども、少なくとも「陰謀」に気付き、それを見抜いているということになる。何かしらロマンティック・アイロニーに似ていなくもない、この〈勝利〉によって傷つけられた〈主体性〉は幾分か癒されるというわけだ。
 「陰謀理論」の社会的害悪については、多くの人がコメントしており、ここでわざわざ重複するまでもあるまい。人種主義などの社会的暴力には多くの場合「陰謀理論」が伴っていることを指摘すれば十分だろう。また、「陰謀理論」というのは、あらゆる(有意味な)事実は社会的に構築(構成)されるという社会学的な思考とは無縁であり、正反対のものだということは指摘しておこう。それは個人的であれ集合的であれ、いかなる〈主体〉へも還元することを拒否する思考の謂なのである。「社会的に構築(構成)される」とは〈主体〉と〈主体〉が交渉するその〈間〉においてそれらの〈意思〉を裏切るような仕方で決定されるということを言っているにすぎない。


 9月4日、藤木久志『刀狩り−−武器を封印した民衆−−』(岩波新書)を読了する。日本中世を、それも農民や雑兵の視点に立って研究してきたという藤木氏の本を読むのは(恥ずかしいことだけれど)初めて。
 本書では、3つの〈刀狩り〉が描かれる。1つ目は言わずと知れた豊臣秀吉によるもの。2つ目は明治維新のときの「廃刀令」、3つ目は第2次世界大戦敗戦後のGHQによるもの。著者の主張は、日本の民衆は上から無理矢理武器を取り上げられ〈丸腰〉にされてしまったのではなく、主体的に武器を「封印」したのだということである。著者が異議を申し立てるのは、例えば「権力と相対して、民衆がつねに、ほとんど四百年来、非武装、「素肌」であったという点に、われわれの歴史の非常な特殊性があったのではないか」(堀田善衛『海鳴りの底から』、p.3に引用)という言説である。そのために、刀狩りは「人民の武装解除」ではなかったということが立証される。
 堀田の『海鳴りの底から』は、〈天草・島原の乱〉を題材とした小説だが、その戦後、天草に国替えになった大名・山崎家治は、前領主が百姓から没収した武器(鉄砲、刀・脇差、弓、鑓)を領内宥和のために百姓たちに返還している(p.5ff.)。重要なことは、「秀吉の刀狩令から五〇年ほど後、徳川の世の百姓たちは、一揆を起こせるほど多くの武器を、その手元にまだ持ちつづけている」(p.7)ということである。曰く、

 天草の新入り大名が、一揆方だった村人に武器を返す。そんな冒険をあえてしたのは、人々の武器によせるあつい心情に応え、武器を喪った屈辱感を癒すことで、何とか村人たちと和解を図りたい、という願いからであったにちがいない(pp.9-10)。
 実際には、「秀吉の刀狩りの後、近世社会を通じて、刀の長さ、鍔の形、鞘の色など、外観についての規制を除けば、百姓や町人に刀や脇差をもつことが禁じられた形跡はなく、村のもつ鉄砲の数は、むしろ時と共に増えていった」*5(p.10)。なお、鉄砲は何よりも「農業に必須の生産手段、つまり農具」(p.167)と観念されており、勿論鑑札制度のような規制は行われたが、藩権力の有する鉄砲の数は「村々の鉄砲の数にはるかに及ばなかった」(p.161)。
 明治の「廃刀令」(「帯刀禁止令」)は、あくまでも「帯刀」の禁止であって、刀の所有を禁止したわけではなかった。また、刀を「懐」にしまったり、袋に入れて持ち歩くことは何ら問題にされなかった(p.204)。その目的は、「帯刀を、新たに明治国家の支配をになうべき、軍・警・官だけの、新しい身分表象として、限定し独占しよう」(p.207-208)というものだった。勿論、山県有朋などには人民の武装解除という欲望はあったわけだが。ということで、第二次世界大戦後、GHQによる〈刀狩り〉が行われる直前には、3世帯に1本の日本刀が民間で所有されていたのである(p.222)。また、

 日本で国民の非武装化が目に見えて進んだのは、秀吉の刀狩令の結果ではなかった。それは、なによりも、占領軍の権威を背にして、日本の内務省と警察が強行した、二〇世紀半ばの武装解除の結果だった(p.221)。
 さて、秀吉の刀狩り、またそれを引き継いだ徳川幕府の政策は、民衆の武装解除や武器の一掃を目的としたものではなかった。一つには、身分秩序を先ず「外観」において達成するという目的があった。さらに重要なことは、〈法の支配〉の確立というプログラムの一環であったことだ。中世においては、身分を問わず、権利は〈自力〉で守るのが当然だった。秀吉にしても徳川幕府にしても、禁圧しようとしたのは、武器ではなく、民衆の〈自力救済〉という慣行・観念だった。曰く、

 [秀吉は]戦争という手段、つまり大名の自力による紛争解決を、「私戦」(かってな戦)とみなして排除し、「互いの存分を聞く」(双方の言い分を聞いて裁定する)という、新しい紛争解決の手段を示していた。自力の戦争から平和な裁判へ、という呼びかけであった。百姓に向けた刀狩り、つまり「百姓の平和」のプログラムは、大名間の戦争の抑止、つまり「大名の平和」のプログラムと並行して進められていく(p.69)。
一元的な法権力への服従による私的な暴力の抑止。これが一方ではアジール的なもの、つまり〈無縁〉の抑圧に繋がるということはいうまでもない。しかし、一方、後には「一揆が使わない限り、大名も鉄砲を使わない。鉄砲を使うには幕府の許可がいる」(p.174)という(支配者/被支配者双方の)暴力・殺生の抑止が成立していた。それに対して、一揆においても、「鉄砲も合図(鳴物)としては使うが、武器としては使わない」という「作法」が確立していった(p.176)。著者によれば、その背景にあったのは「ふたたび戦国内戦の惨禍にけっして逆もどりしない、という社会の合意」(p.175)である。
 これはけっして日本の特殊性ではないだろう。一般に近代社会の住人になる、或いは国民国家に統合されるというのはこういうことである。また、著者にとって、研究のヒントとなったのは中世ヨーロッパ(ゲルマン社会)における「帝国(ラント)平和令」における「武装禁止」であった(pp.14-16)。これからすると、私人間における銃を使っての〈自力〉的「紛争解決」が絶えない、〈銃社会アメリカは、〈自力〉解決の気風を湛えた〈中世社会〉といえるかも知れない*6。それとともに、それが近代化の一環であるとしたら、例えば〈排除〉問題に焦点を据えた、フーコー的な視点からする批判的考察というのがどうしても要請されるだろう*7。また、強大な暴力を独占した覇権者(秀吉、徳川幕府等々)による(勿論、暴力の行使において〈節度〉が前提とされていたにせよ)〈平和〉の強制ではない仕方で〈平和〉を達成することは可能なのかということも、政治理論上の大いなる問いとして依然残り続けているといってよい。


 9月4日、


 Peter CAREY
Wrong about Japan: A Father's Journey with His Son
 Faber & Faber, 2005

を買ってしまい、どういうわけか、すぐにカフェで半分くらい一気に読んでしまう。
 ニューヨーク在住の作家によるジャパアニメーション・オタクの息子に付き添っての、日本紀行。息子チャーリーが〈日本〉に萌えたそもそものきっかけは北野武監督の『菊次郎の夏』だったという。それから、Carey氏には(上と関係するのは全くの偶然だが)日本刀に対するオブセッションがあるようで、葛飾区に刀鍛冶を訪問する場面での、嬉々とした父親と半ば白けた息子の対照性が興味深い。
 Peter Careyという作家については、殆ど知るところがないのだが、取り敢えずその人となりについては、http://wwwehlt.flinders.edu.au/english/PeterCarey/PeterCarey.htmlを参照のこと。また、 Wrong about Japanのレヴューとしては、取り敢えず、


 Peter Conrad氏によるもの  
http://books.guardian.co.uk/print/0,3858,5094355-99940,00.html

 Ian Sansom氏によるもの
http://books.guardian.co.uk/print/0,3858,5108417-99940,00.html


を挙げておく。
 

*1:See http://books.guardian.co.uk/news/articles/0,6109,1557983,00.html

*2:そういえば、シェイクスピアムスリムだったという説もあった。See Vanessa Thorpe"Sufi or not Sufi? That is the question"

*3:言及されているBrian Vickers氏のテクストは、"Why not Shakespeare?"

*4:もし適当な〈主体〉が実在しなければ捏造される。ただ、無からは〈主体〉は立ち上がらないのであり、論理的には分類する・カテゴリー化するという作用が前提となる。分類によって構築されたカテゴリーに〈主体性〉が賦与されるというわけである。

*5:刀の「外観についての規制」であるが、それは刀の規制が民衆の武装解除ではなく、百姓・町人と「武士の風体との差をはっきりさせたい」(p.143)ということが主眼であったということだ。

*6:これには、山内進『決闘裁判』(ちくま新書)が参考になる。ところで、アメリカ社会において、〈銃〉の象徴的意味というのはどのようなものなのだろうか。藤木氏が示している中世日本における刀の象徴的意味と比較するというのは興味深いことだ。

*7:著者は、「十九世紀に入ると、百姓一揆やくざな悪党の影響が広まり、鉄砲の使用がしだいに野放しになっていく」(p.177、強調は引用者による。)ことに言及している。