「庭園の近代」

鈴木博之「象徴と自然 庭園の近代」『UP』(東京大学出版会)439、pp.26-32、2009


少し抜書き;


わが国の庭園は石を立てることを基本として、そこに象徴的意味を込めてきた。俗にいう鶴亀の庭とか、三尊石、須弥山石など、みな石を基本にした象徴である。石のみではなく水もまた、海を象徴するものとして無限の広がりをたたえることを理想とした。しばしば心字池などと称して複雑なかたちの池を作るのは、一ヶ所から池の全貌が眺められないようにする工夫である。池はどこから見ても、かならず陰に隠れてしまって見えない部分を含むのがよい。そうすることによって池は想像上では無限の広がりをもつことになり、庭園は世界を飲み込むことが可能になるのである。借景や縮景といった手法も、庭園のなかに無限の広がりを持ち込むための工夫である。広大な庭園はさらに広大になり、小さな庭園のなかにも無限を宿らせることが可能になる。
しかしながら近代の和風庭園は、石を立てることによって象徴性を獲得するという伝統的な文化を捨て去ってゆく。近代和風庭園は明快な開放性、自然を庭の基本として素直に据える「自然主義的庭園」となってゆくのである。近代以前の庭園は、それに比較すれば「象徴主義庭園」であった。禅宗の庭園も浄土庭園も象徴主義的である点においては、同一の範疇に属するといってもよいのである。
近代の「自然主義的庭園」は、石を石として置き、植栽を植栽として植える。そこに等身大の庭園が生まれるのである。そこに生まれるものは、素直な広闊な庭園、のびやかな自然である。名石と呼ばれるものを配することもあるが、いわゆる役石として象徴的な意味を持ち込むわけではない。造形的バランスをもたらす要素、物理的なマッス(量塊)にちかいものとして石は配される。そこでは、すべては見たままに解釈されれば良いのである。こうした近代の「自然主義的庭園」を生み出した庭師は七代目小川治兵衛であろう。彼は山県有朋の知遇を得て、京都に彼のための小別邸、無隣庵の庭園をつくる。
それは琵琶湖疎水の水を引き入れた庭園で、水は海として表現されるのではなく、さらさらと流れる動きの要素として配される。石は低く伏せられていて、象徴的構成をとることはない。植栽もそうした石に寄り添うように低く刈り込まれる。敷地周辺には喬木も植え込まれるが、そこにはヤマモモやモミといった、それまでの庭園ではまず見られなかった樹種が持ち込まれる。踏み石のなかに伽藍石と呼ばれる、寺院の礎石だった石が持ち込まれるが、それは象徴というより歴史の連想をさそう、エピソディックな石の用い方である。庭園は浄土や彼岸や悟りを見るものではなく、日常のなかに広がる気持ちのよい、素直な場所となった。(pp.26-27)

自然主義的庭園」は、どのような基盤の上に成立していったのだろうか。おそらくは、そこに近代の精神基盤が見えるはずである。「象徴主義的庭園」は、それを解釈するために、かならず象徴読解のための世界観的前提を必要とする。単純にきうなら、浄土庭園を理解し想像するためには浄土思想という世界観をもつことが前提となるし、禅宗の石庭を理解するには、おそらく禅の境地に達していなければならないのである。そうした世界を理解することが庭園理解のための「世界観的前提」だ・
それに対して「自然主義的庭園」は、世界観的前提を必要としない。あるいは、世界観的前提が成立しなくなったとき、庭園は「象徴主義的庭園」から「自然主義的庭園」へと移り変わったのだといえよう。明治以降の新興勢力は、過去の知識人のような世界観的前提をもたなかった。彼らは自らの感性に合わせて庭園を変えた。そこに新しい時代の表現が生まれたのである。(pp.27-28)

庭に象徴的意味を込める作庭法は、共有される世界観を前提としなければ成立しない。たとえそれが限られた狭い範囲の教養人のあいだのものであるにせよ、象徴形式は、それを読み取ることのできる集団が存在しなければ、存在できない。「象徴主義的庭園」が衰亡して、「自然主義的庭園」の時代になるのは、建築から装飾を消滅させ、歴史様式に基づくリヴァイヴァリズムを終焉させた近代化の、庭園における並行現象である。(p.30)