どちらの教室?

ちきりん*1「雪の日、中学時代」http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20080203


最近偶々知った10年前のエントリー。ちきりんが自らの「中学時代」を語っている。所謂当時の「荒れた中学校」で、まともな「授業」もなく、教室で日がな一日「ど貧民」(「大貧民」)ばかりやっていた(それも万引きされたお菓子の差し入れ付きで)話に悲惨な感じがせずに、寧ろほのぼのとした感覚を喚起しているのは、スクール・カーストとかいじめの話がないからだろうか。私の一般的理解では、所謂校内暴力を体育教師や警察権力を中心にして制圧した後で、生徒の暴力が外側から内側へと転じて、今度は〈いじめ〉が問題化したということになるのか。
ところで、当時の兵庫県*2では、「内申書」だけで高校進学が決まったので、「受験勉強」の必要はなかったという。これを読んで思い出したのは、浅田彰氏の『構造と力』*3の序章。実は序章だけしか読まなかった(読めなかった)という人も少なくない筈なのだけど、それはともかくとして、そこでは2つの教室の話が言及されていた。ひとつは、可視的な強面教師によって監視された教室。もう一つは、一見すると誰も監視なんかしていないように見える「パノプティコン」教室。ちきりん中学は一応強面の体育教師によって監視されている。しかし、彼ら*4は無能(不能)な存在であり、教師たちは誰も監視を気にも留めずに自由に振る舞っている。しかし、その生徒たちの振る舞いは(どういう基準か知らないけれど)しっかりと査定されて、「内申書」という仕方で結実していたわけでなので、やはり「パノプティコン」だったともいえる。日本の学校パノプティコン」を支えている制度が「内申書」という制度だったわけだけど。

構造と力―記号論を超えて

構造と力―記号論を超えて