『しろいろの街の、その骨の体温の』

村田沙耶香『しろいろの街の、その骨の体温の』を数日前に読了。これを買ったときは、村田さんのこともよく知らず、ただ芥川賞を獲ったということと、住宅地を写したホンマタカシ*1の写真に惹かれたのだった。しかし、実際に読み始めると、ぐいぐいと字に惹き付けられ、略一気に読了してしまったといっていい。「解説」を書いている西加奈子さんは


どの作品も素晴らしいが、私は、彼女の作品の中で、この『しろいろの街の、その骨の体温の』が一番の傑作だと思っているし、一番みんなに寄り添える力を持っているのではないかと考えている。村田沙耶香の「村田沙耶香性」が綺麗に引き延ばされ、そしてその核が少しも薄まっていないからだ。村田沙耶香の入門編としても、永久保存版としてもづさわしいこの物語を、どうかたくさんの人が読んでくれますように。私は真剣に、切実に願っている。(p.315)
と書いている。
凄く雑な言葉でいえば、『しろいろの街の、その骨の体温の』は、郊外の「ニュータウン」を舞台として、女性の第二次性徴期を描いた小説だということになる。「私」(「結佳」)、「若葉」、「信子」という3人の少女と、「私」と同じ「習字教室」に通う「伊吹くん」という少年を軸にした、小学校4年生から中学校3年生までの物語。とは言っても、小学校6年生と中学校1年生は空白として処理されている。文庫本の98-99頁に空き地の残る住宅地の写真があり、100頁目は空白で、102頁からは一気に中二的世界になっている。大雑把に言えば、ここを境に小説は前半(小学生篇)と後半(中学生篇)に分かれる。
前半は「私」(「結佳」)と「若葉」と「信子」が群れる話。「私」は群れには馴染めず独居を好むという側面があり、〈群れ〉以外の時空として「習字教室」の世界があり、そこで「伊吹くん」と関わる。前半で焦点となるのは「初潮」であるが、これまで小学校高学年女子の視点で「初潮」を描いたエクリチュールは知らなかった。そうした視点の存在を知るだけでもこの小説を読む価値はある。後半の中学校世界では、小学生の頃の〈群れ〉は解体しており、教室の女子は(そういう言葉は使われていないけれど)所謂〈スクール・カースト〉によって分断されており、「若葉」は上位に、「信子」は底辺に、「私」は下の方ではあるが「真面目な子」(p.108)として目立たぬ位置に割り振られている。そのため、「私」は教室の〈社会構造〉を割合客観的に眺めることができる。男子の方もカースト化は進んでいる。「伊吹」は小学生の頃は「背」が「学年でも三番目くらいに小さいけれど、足が速」いガキにすぎなかったけれど(p.14)、「サッカー部の副部長」(p.110)になり、男子の中でも上位に属している。しかし、本人にはその自覚がない。実は「私」は小学生の頃から、「おもちゃ」として「伊吹」に性的ないやがらせを密やかな行っているのだが、中学になっても「習字教室」は続いており、〈いやがらせ〉も続いている。「後半での焦点は(「私」について言えば)性的な存在としての自己の自覚ということになるだろう。小説は、その後、密やかな悪事が露呈することによる「私」の追放、そして奇跡的なハッピー・エンド*2へと続くのだが、こちらの方を具体的に書いてしまうと、ネタバレの謗りを受けることになるだろう。
この小説は新興住宅地(ニュータウン)が舞台となっている。そうしたトポスと第二次性徴期を生きる登場人物たちとの関係も興味深いのだけど、ここでは論じている余裕がない。また、この小説には、極端な金持ちとか貧乏人は出てこない。母子家庭や父子家庭も。登場人物はみな、賃金労働者である父親+専業主婦の母親+未婚の子どもたちという戦後の昭和に典型的な家庭の子どもたちである。そうしたキャラクター設定があるために、読者は階層(階級)などのファクターを括弧に入れて、第二次性徴期の子どもたちの群像という主題に集中することができるといえる。